〜香鹿と糸島の場合〜

『ファクトリー!〜香鹿と糸島の場合〜』より


 香鹿優人様封筒に印刷された自分の名前と、裏面の差出人の名前を見て、その薄っぺらさに俺はため息を吐いた。ため息を吐いてみて、でも、落胆の気持ちよりも安堵の気持ちのほうが大きい自分に、落胆する。

 差出人は、その名を聞けば人気アーティストがいくつも浮かぶほどの大手レコード会社だ。何週間か前、〝新人発掘オーディション〟に俺が俺たちがデモテープを送った、レコード会社。

 中に入っている紙が破けてしまってもべつに構わない、という投げやりな気分で封筒を破いて開ける。それでも一応開けてみるあたり、俺って律義っていうか、諦めが悪いっていうか、みみっちいっていうか。

『厳正なる審査の結果、残念ですが……』いかにも仰々しい、明朝体のその文字の羅列を見てから、俺は携帯電話をポケットから取り出す。まずは、リーダーであるアツシに送ろうか……いや、一番気の利く年下の、リョウタに送ろうか……カッとなりやすいケンゴはだめだ。きっと、近いうちにミーティングを開こうとか、無意味な事を言い出すに違いない。「今回も、だめだったよ」なんて送った日には。

 そこまで考えて、俺は結局携帯電話をポケットに仕舞う。面倒になったというのもあるし、もたもたしていたら仕事に遅れてしまう、というのもあった。ネックウォーマーを頭から被り、その上からダウンジャケットを着て、アパートのドアから飛び出す。月曜は朝礼があるので、いつもより心持ちはやく行かなければならない。機械も動かしておかなければいけない。俺がオーディションに受かろうが落ちようが、工場は今日も明日も明後日も、たぶん世界大恐慌が起きなければ十年先も、変わらず動くのだ。俺の職場である、糸島塗装興業株式会社は。

 

 

「コジカちゃん、おはよう」

 原付を停めてヘルメットを取った俺に声をかけてきたのは、パートの吉田風子さんだ。コジカちゃん、というのは、俺のあだ名。香鹿だから、コジカ。〝だから〟っていうのも変だけど、あだ名に特別な理由なんてない。風子さんは、白いダウンコートを着て、寒さに鼻の頭を赤くしている。俺の原付の二つ隣に水色の自転車を停め、「今日も寒いね」と続ける。

「はよっす。いやー、ほんといつまでこんな寒さなんでしょうね。俺寒いのマジ無理だから、キツイっす」

「わたしもだめ。寒いと色んな動きが全部遅くなっちゃって困るよね。冷え症だからどんなに着込んでも手足の先が冷たいし」

 そう言って、風子さんは白い毛糸の手袋の指先を擦り合わせながら、はあ、と息を吐く。息が空気に触れて白くなるのを確認するかのように、心持ち顔を上向きにして。

 風子さんは確か四十代半ばで、もちろん結婚していて、今年だか来年だかに成人式を迎える娘が居るそうだ。だから俺から見れば〝おばさん〟なのだろうけど、こうして寒がっている姿など見ていると、なんだか女子中学生のようにあどけない印象を受ける。小柄で、顔が少しふっくりしているからか、それともおっとりした話し方だからか、とにかく〝昔のアイドルがそのまま年を取った〟みたいな可愛いらしい人だ。この言い方が、褒め言葉になるのかどうかは置いといて。

 風子さんは、勤め始めてどれくらいになるんだっけ……糸島よりは先に入ってきたから、半年以上は経つはずだ……

 そんなふうに考えてから、時間経過を辿る基準が、〝糸島が来る前〟と〝糸島が来た後〟になっている自分が情けなくなってちょっと気が遠くなる。紀元前、紀元後、じゃあるまいし。ため息をネックウォーマーの中に閉じ込めて、風子さんと並んで歩き出す。風子さんは、一通りの天気の話(「今日はお天気はいいけど乾燥してるね」)をして、それから仕事の話(「あの機械、最近調子悪くてすぐ止まるね。数が上がらなくて困るよね」とか)をする。俺は相槌を打ちながら、数メートル前を歩いている黒髪の後ろ姿を発見して、「あ」と呟く。俺の呟きに、風子さんも視線をそちらに遣った。それから、「糸島くんだ」と、やっぱり小さな声で呟く。そうだ。俺が風子さんをなんとなくいいなと思うのは、こういうところだ。こういう、丁寧なところ。糸島の事を、他の人たちのように、糸島のぼんと呼ばないところ。

「糸島、おはよう」

 歩く事自体が面倒くさいとでも言いたげに、ずるずるとスニーカーの底を引き擦るような歩き方をしている後ろ姿に声をかける。まわりを歩いていた人たちが俺をちらっと振り返ったが、肝心の糸島は振り返らない。

「いとしまっ! おはよう!

「コ、コジカちゃん」

 声が大きいよ、と風子さんが言い、それから三秒ほど遅れて糸島が振り返った。自分から声をかけたくせに、糸島に振り返られると未だにちょっと緊張する。つやつやの黒髪と同じ色をした瞳。糸島の目は、うさぎのそれに似ている、といつも思う。白目の割合が少なくて、黒目がたっぷりとしていていつもちょっと湿っている。

……よう」

 糸島は、風が吹いたら飛ばされてしまいそうな小さい声でそう言い、またずるずると歩き出す。今のは、「よう」という挨拶ではなくて、「おはよう」があまりにも小さくて、「よう」しか聞こえなかったのだ、というのがわかるのは、俺だけじゃないかなあと思う。

 コジカちゃん? と風子さんに呼ばれて、俺は自分が立ち止まっていた事に気付いた。

「あ、なんかぼうっとしちゃいました。やっぱダメっすね、月曜は」

 取り繕うように笑い、そのぎこちなさに風子さんももちろん不思議そうな顔をしていたが、でも「そうだね」と返してくれた。視界に、糸島の姿はもうない。たぶん、角を曲がって、皆が使わないほうの階段で更衣室まで上がるのだろう。

「コジカちゃんって、優しいね」

 階段を上りながら風子さんが言う。人一人がやっとすれ違う事の出来る細い階段なので、俺は風子さんの後ろをついて上って行く。

「へ? 何がっすか?

「だって、糸島くんにあんなふうに声かけるの、コジカちゃんくらいだよ。皆も最初はちゃんと挨拶してたけど、二週間目くらいで諦めちゃったんじゃないかなあ。糸島くん、答えるどころか顔も上げないし」

 人とすれ違うたびに、「おはようございまーす」と挨拶を交わしながら俺は思う。二週間なんて、短すぎる、と。糸島に「おはよう」とか「お疲れ」とか言って、顔を上げたり振り向いたりするようになるまでに二ケ月かかった。返事の形に口が動くようになるまでに更に一ケ月かかり、今みたいに声を出すまでにはもう一ケ月かかった。二週間なんて、全然、だめ。

「いや、まあ、俺と糸島はタメですし、やっぱ俺が声かけなきゃ女性ばっかりの職場では心細いかなって思っただけで、優しいとかではないですよ」

 あはは、と俺はから笑いをする。更衣室までの三階ぶんの階段を上り切った風子さんはちょっと息を短くしながら、「そういうのが優しいって言うんじゃないかな」とにこりとした。俺はから笑いをしつつ、「またあとでね」と手を振る風子さんに軽く会釈する。

 優しいとかでは、ない。俺は糸島が好きなのだ。挨拶一つ返してもらうのに何ケ月も頑張ってしまうほどに。そして、挨拶が返ってきただけで否、振り向かれただけで、たちまちぼうっと、頭の芯が熱くなってしまうほどに。振り返った時の糸島の瞳。作業をしている時の、ほんの少し開いた唇。筋の通った鼻。糸島を見ていると、小学生の時の初めての恋をもう一度繰り返しているみたいな錯覚に陥る(あら、俺って詩人)。こういうふうに自分の気持ちを冷静に見つめられるようになったのはつい最近の事だ。なにせ、糸島は男なのだ。俺と同じ。女の子みたいに華奢とか、しぐさが女っぽいとかいうわけでもない、ふつうの二十七歳の男だ。いや、ふつうと言うにはちょっと変わっているけれど、でも、とにかく。

 糸島を好きなのではと思い始めた時は、病気なんだろうかとか、女の子には何も感じなくなってしまったのだろうかとか悩んだが、最近はもう吹っ切れつつある。吹っ切れたと言い切れないところが情けないけれど。結局どうしたって、糸島が可愛く見える。あ、こういうのが病気というのかな。付き合いたいとかいう具体的な望みは、あまりに絶望的で望む事すら憚られる。

 でも、好きだ。

 糸島塗装興業株式会社の副社長の息子である、糸島薫が好きだ。

 

 

 お噂はかねがね、なんて言い回しがあるけれど、糸島がこの工場にやって来る一週間以上前から、従業員、主にパートのおばさんたちの休憩中の話題は彼の噂話で持ちきりだった。噂話というのは得てして不穏なものが多い。糸島に関する噂も当然の事ながら聞くにしのびないものだった。おばさんって、恐いのだ。

 ・父親(副社長)に似て、チビで中年体型で冴えないらしい。

 ・学生時代にひどいイジメを受け、高校を卒業してからこの年までニートだったらしい。

 ・父親(副社長)がどこぞのホステスを孕ませて出来た子供。体裁が悪く外に出せないので自分の会社で働かせる事にしたらしい。

 等々の、出所のさっぱりわからないひどい噂だった。年齢は六十間近で、六年以上勤めているパート従業員のリーダー格である橋本さんが、「そんな使い物にならないぼんぼん、連れて来られても迷惑よ」と吐き捨てるように言ったのをきっかけに、糸島のあだ名は彼がやって来る前から〝ぼん〟になった。もちろん、皆裏でそう呼んでいるのだ。俺が知る限り、裏でも表でもきちんと〝糸島くん〟と呼ぶのは一階の製造ラインの責任者の田崎さんという男の人と、風子さんくらいだ。パートのおばさんたちは皆、橋本さんには逆らえないので、彼女に倣うようにして〝ぼん〟とか〝糸島のぼん〟と彼を呼ぶ。

 噂話の真相は確かめようがないが(何しろ内容が内容なだけに本人に直接訊ねるわけにはいかないし)、噂話と決定的に違うのは、糸島の外見だ。百七十三センチの俺より目線の高さが二、三センチ下なので、背は確かにそこまで高くはないけれど、中年体型でもなければ冴えなくもなかった。象牙色の肌は肌理が細かく、中学の時ちょっとニキビに悩まされた俺からすると羨ましくなるくらいつるりとしていた。卵型の顎は綺麗に左右対称だったし、顔の中心にある鼻もまた、歪みなくすうっと通っている。黒目がちな瞳と太い眉と髪はすべて艶やかな黒色で、太陽のもとでその髪はきらりと光った。簡単に一言で言うと、糸島は〝イケメン〟だったのだ。

 橋本さんを始め、パートの皆さん方はずいぶんと浮足立った。一階の製造ラインは、俺と田崎さん以外はほぼ女性だし、ちらほら居る男性陣は皆第一線を退いてここにやって来たおじさん(おじいさん?)ばかりだからだ。

 でも浮足立ったのは最初の一週間ほどだけだった。なぜなら、糸島は仕事の手が遅い上に、恐ろしく愛想がなかったからだ。

 おばさんたちは、仕事が出来ない人間にとても厳しい。お互い表では優しく愛想よく接していても、裏に回ればやれあの人はミスが多いだの、あの人はいつまでたっても生産数が上がらないだの、あの人は月に一度しか残業をしないだの、とにかく言いたい放題だ。仕事の話だけならまだしも、太っているとか痩せているとか、服装や持ってくる弁当の中身まで(!)よくもまあそんなに言う事があるなと感心すらする。

 でも、表と裏を使い分けなければいけないのは女性同士の場合のみだ。仕事の出来ないおじさん従業員は、あからさまに冷たい態度で接されている。俺の場合、仕事が出来るかどうかは別として、ここでは若者なので、おばさんたちは皆優しい。まあどちらかと言えば出来るほうだと思うけれど。コジカちゃんは頼りないわねえと言われもするが、表で面と向かって言われるぶんには恐くない。そして、仕事の出来不出来よりも更に重きを置かなければならないのが〝愛想のよさ〟だ。そこについては、自分で言うのもなんだけれど長けている。幼い頃から姉二人にこき使われて来ただけあって、女性に色々言われるのは慣れているのだ。

 その大事な部分が、糸島にはすっかり抜けている。色の白いのは七難隠すと言うけれど、それと同じように糸島だって、ちょっとくらい仕事が出来なくても愛想さえよければ橋本さんを始めとするおばさんたちにあそこまでボロクソに言われることもないだろうに。糸島よ、お前はどうしてそんなに愛想がないんだ、と問いかけたくなるくらい、糸島は愛想がない。というか、無表情だ。もしかして宇宙人なのだろうか。

 ……だから、好きになんかなっちゃったんだろうか。

 

 

 五ケ月前まで、俺には彼女が居た。専門学校に通っていた頃に勤めていた飲食店で知り合って、大喧嘩したり小さな言い合いをしたりしながら、それでも友人であった期間を含めれば七年近く一緒に居た。七年。小学一年生が中学生になってしまう、長い長い年月だ。

 長い年月を一緒に過ごすうちに、よくありがちなマンネリは何度も訪れた。セックスまでには至らない、でも二人で食事をしたりするちょっと可愛い女の子が他に居た時期も、あるにはあった。彼女のほうにだって、そういう相手が居たと思う。だけど結局お互いに戻ってくる。そういう付き合いだった。惰性の関係を、落ち着く相手、とか、気が置けない仲、というふうに捉えて推し移っていけるカップルも居るのだろうけど、俺たちにはそれが出来なかった。相手のちょっとした言動や行動が気に障る。ものの食べ方や、うちでゆっくりしている時の癖、お金の使い方、連絡の頻度。それからこれが彼女にとって一番の不満の種だったと思うのだが、俺がいつまでも正社員として働かず、バンド活動を続けている事。

 色んな事が数ミリずつずれていって、一緒に居ても楽しいよりも苦痛に感じる事のほうが多いのに、でも「別れよう」と一言言いだすのが煩わしくて億劫で、ずるずると一緒に居たのだ。別れる前の数ケ月はだから、何かの義務のように連絡をし合い、会って食事をして、月に一度あるかないかのセックスを行った。

 そんな中、糸島に出会った。出会ったというか、糸島がこの工場にやって来た。

 今思えば、俺は一目見た時から糸島をいいなと思っていたのだろう。自分の気持ちに気付くのが遅れたのは、糸島が男だからだ。だって、有り得ない。男を好きになるなんて。

 入って来る前から注目の的だった糸島は、皆の予想をことごとく裏切った。まず、見た目がよかった事(これは、いい事だ)。それから、見た目に似合わず愛想がない事(初日から、はいもいいえも言わなかった)。そういう礼儀知らずな態度をとるにもかかわらず、恐ろしく仕事がのろい事(そして、注意されても急ぐ気配もない)。

 糸島に仕事を教えたのは橋本さんのお仲間で彼女の次に社歴の長い東原さんで、この人もちょっと癖のあるおばさんだ。機嫌さえ損ねなければ、明るくてお喋りの面白い人ではあるのだが。

 東原さんの中で糸島の印象が決定的に悪くなったのはあの時だろう。糸島に部品の組み立ての仕事を教えはじめて二時間ほど経ったある日、「あんたねえ、何考えてんのよ! 教えてもらったら、返事くらいしなさいよ!」と東原さんがフロア中に聞こえる大声で叫んだのだった。

 驚いて振り返ると東原さんと糸島の動かしていたラインが止まっていて、びーびーと非常停止の音がけたたましく鳴っていた。俺は急いで東原さんと糸島のところに駆けて行った。部品の補充や機械の点検や簡単な修理が俺の仕事だからだ。

「どうしたんですか、トラブルですか?

「どうしたもこうしたも、何教えても、わかった? って訊いても何にも答えないのよこの子! あげく、動いてる機械に手つっこんじゃうし」

「ええっ」

 それは一大事だ。怪我をしてしまったら、点検のために何日も機械を止めなければならないし、何より挟まったらえらいことになる。実際に見た事はまだないが、機械に指を挟んで引きちぎられた人が過去に居たらしい。

 俺が青い顔をすると、「大丈夫よ、センサーが働いて停止したから」と、東原さんが呆れ顔をした。「あんたそんな事くらい想像つくでしょ」と言わんばかりの視線がちょっと痛い。五十代のおばさんの、つけまつ毛とアイシャドウの施された瞳は結構キツイ。

「あ、そ、そうっすよね。よかった」

「よくないわよ」

 東原さんは間髪入れずに言う。他のラインや機械を動かしているパートさんの視線をあちこちから感じながら、え、と言うと、

「社長の孫で副社長の息子だか知らないけどね、こんな礼儀のない、どんくさい子に仕事教えるなんて時間の無駄よ。あたし嫌だからね」

 ふんっ、という感じで東原さんは顔を背ける。そんな事を言われても、正社員でもないアルバイトの俺がどうこう出来る問題ではない。言うべき言葉を見つけられずに顔を引きつらせていると、そんな俺を助けてくれるかのごとく昼休みを知らせるチャイムが鳴り響いた。

「あたしから田崎さんに言うから」と東原さんは言い残し、ボリュームのある身体を揺らして去って行った。そのやりとりの間、当の糸島はというと、微動だにせず、でも決して萎縮して動けずにいるというふうではなく、まったく他人事のように足元を見つめて突っ立っていた。

「あの、ま、まあ気にしなくてもいいと思うよ。いい人なんだけど、ちょっと言い方とか厳しいからさ、東原さん」

 俯いたまま動かない糸島に、俺は言った。思えば、それが初めての会話ではない。糸島は一言も話さなかったので、初めての〝声かけ〟だった。

 声をかけながら、なげえまつ毛、と思った。そんな事を思っている場合ではなかったのだが、ついさっき見た東原さんのつけまつ毛なんかよりも、ずっと綺麗で長かった。

「あ、ほんとにケガしてない? かすったとか、切ったとか、小さいケガでも

 完成部品を入れる箱の上にちょこんと乗っている糸島の手を見た瞬間に、言葉に詰まった。それは、小さな手だった。糸島の身体とのバランスを考えると、どう見てもアンバランスなサイズの手だった。女の子みたいと言うよりも、傷一つついていないその手は、作り物の人形のそれを彷彿とさせた。

 糸島は、呼吸すらしていないのではないかと思うほどじっと動かず、俺もまた、その人形のような手に目を奪われていて、俺たちは機械の傍で向かい合うかたちで、数分間じっとしていた。先に動き出したのは糸島で、俺の存在などないもののように脇をすっと通り抜けて行った。

 纏足、という言葉が頭に浮かんだ。纏足は足の事だけど、小さな頃から手の指を縛って、重いものなど何も持たせずに育てたら、ああいう手になりそうだなと思った。思いながら、糸島の後ろ姿をぼうっと見ていた。身体の芯が妙に熱くて、突然熱が出たような、変な感じだった。

 それから毎日、糸島を目で追った。意識的に見ている時もあれば無意識に見ている時もあった。一日、また一日と過ぎていく毎に、糸島の評判はどんどん悪くなっていった主に、橋本さんと東原さんによって。まあ、そう言われても仕方のない態度と働きぶりだった。勤め始めて一週間で糸島は戦力外となり、二週間目からずっと納入された部品を一つ一つ点検する、という地味で大抵の人が嫌がる仕事(ただただバネやらゴムやらを見続けるだけだ。不良品はほぼ出ないので、立ったまま寝そうになる)を任されている。誰がどう見ても役に立っていないのに絶対にクビになる事がないというのも、皆からの反感を大いに買う要因の一つだった。

 俺はでも、糸島が変なやつだから気になるのだと自分に言い聞かせていた。出来るだけ頭の隅に追いやりたくて、バンドの練習に精を出したり、彼女にいつもよりマメに連絡を取ったりした。

 でも、誤魔化しようのない事件が起きた。事件なんて大袈裟かもしれないけど、あれはやっぱり大事件だった。俺にとっては。それは、彼女との最後のセックスの時に、起きた。

 怠惰な関係と比例するように、俺と彼女の身体の触れ合いはひどくぬるいものになっていた。俺は、二人きりで居るのに毎回毎回手を出さないのも悪いかなあと思っていたし、彼女はたぶん、拒むのも面倒だったのだろう。惰性でするセックスは、なかなか上手くいかなかった。彼女の口から洩れる息も声も嘘っぽく感じて、そのたびに萎えそうになったけれど、何だか意地になって身体を揺すった。

 なんか興奮する事、考えようと、俺はその時思っていた。もうその時点で最低なのだけど、ここからがもっと、最低だった。ぎゅっと目を瞑って、彼女のためではなく自分のために腰を揺すりながら、ふと頭に浮かんで来たのは糸島だった。

 糸島の、濡れた黒い瞳。誰の声も届かない、遠い感じのする横顔。つるりとした象牙色の肌。薄い唇。人形みたいな、小さな手。あの瞳が俺を見たら、あの唇が動いて、俺の名前を呼んだら、あの小さな手が、俺の、熱を持った部分に触れたら……

……い、」

 いとしま、と口走りそうになった。彼女の身体に埋まっているそれが、硬さを増すのが自分ではっきりとわかった。やばい、と思った瞬間に、耳鳴りがする感覚と共に熱が放たれた。びっくりして目を開くと、冷静な彼女の瞳と瞳がかち合った。もうだめなんだと、わかった。

 だからと言ってセックスが終わった直後に別れ話を切り出すのもなあ(しかも俺だけイッちゃってるし)、などと思っていたら、彼女のほうから、「別れようかあ。そろそろ」と言ってきた。……いや、言ってくれた、と言うべきだろう。

「なんか、最後のほうダメダメだったけどさ、あたしたち。……でも、楽しかったよね?

 汗臭くてぐちゃぐちゃのベッドから身体を起こし、下着をつけながら彼女が笑った。久しぶりに見る笑顔だった。

 溌剌とした可愛い女の子だったのに、疲れた顔ばかりさせていた。いつだったか、「友達の結婚式のご祝儀代が馬鹿にならないよー」とちょっと悲しそうに言った時、俺は「大変だな」と返した。その三日後くらいに、それが彼女の結婚したいというサインだった事に気付いた。

 俺はアホだ。いつも見に来てくれていたバンドのライブに、いつからかあまり来なくなった。どうして、と訊ねなかったのは、成功する見込みのないバンド活動なんか辞めろと言われたくなかったからだ。いつの間にかだから、俺のバンドの話は、話題に出なくなった。わりと大きな会社の経理をしている彼女は、俺が買ってやれないようなバッグやアクセサリーを持っていた。部屋にあるのに、俺とのデートの時は極力それらを身につけては来なかった。それに苛々していた俺は、アホで、情けない。

 彼女のほうが、俺に嫌気が刺しているのだと思っていた。ただなんとなく別れられなくて、好きでもないのにずるずると関係を続けているのだろうなと思っていた。でも、違った。俺が、彼女を見ていなかったのだ。もう、ずっと前から。その上彼女に別れを切り出させた。自分勝手なセックスのあとに。

 俺は、アホで、情けなくて、……アホだ。

 

 

 糸島塗装興業株式会社に勤め始めて二年近くなるが、食堂を利用するようになったのはここ何ケ月かはい、誤魔化さずに正直に言います、半年前、糸島がやって来て、昼休みには食堂に行っているのを知ってから、利用するようになった。

 糸島はいつも、広い食堂の隅っこの、長机の左から三番目の席に座る。他の机はすべて対面式になっているのだが、その長机だけは壁に沿うように置いてあり、向かいに人が座れないつくりになっているので、一人で食事を取りたいおじさんや若い女の子がいつも陣取っている。うちの工場以外の下請けには、若い女の子もちらほら居るのだ。

 だから、糸島の隣に座りたくても、いつも席が空いていなかった。つやつやの時々後ろに寝癖がついている黒髪を確認しながら、ああ、また空いてねえや、と思っていたら橋本さんとか東原さんとかに、「コジカちゃん! こっち空いてるわよ!」とか大声で呼び止められて、へらへらしながら彼女らの近くで飯を食う事になるのだった。

 今日は驚いた。なんと、糸島の隣の席が空いていたのだ。あやうく、カレーの乗ったトレイを落っことしそうになった。

「お疲れっす」

 トレイを置いた瞬間、勢い余って長机がちょっと揺れた。糸島の隣の隣に座っていた金髪のギャル(化粧直し中)が、鼻の下を伸ばしてファンデーションを広げながら俺を睨む。「あ、すんません」と俺は小声で言い、もう一度糸島に、「なんも食わねえの?」と声をかけた。糸島の前には、食べ物も、食べ終わったあとの食器もない。あるのは小型のウォークマンだけだ。そこから出ている黒い線は糸島の耳に繋がっている。

「食わねえと持たないぞ、昼から。今日のおすすめはキーマカレーなんだって。ほら。見た目ちょっとグロいけどさ、ここの食堂何食ってもはずれないよな。食った事ある? カレー」

 まったく顔を上げようとしない糸島と、それにもかかわらずべらべら喋る俺とを、化粧直し中の金髪ギャルが不審そうに見ている。いやいや、こんなのではめげない。なんたって俺は、半年間頑張った男なのだ(他の事も、もっと頑張れよな、俺)。

「何聴いてんの?

 ウォークマンの画面を覗き込むように顔を近づけると、糸島からはちょっと甘い、でもくたびれた感じの香りがした。人んちのベッドってこんなにおいだよな、と思い、じゃあこれは糸島の汗って事なのかな、と思い、自分のその思考回路がなんとなくやばい気がして焦った。

 ウォークマンの画面は暗く、糸島の耳元からも音楽が漏れてくる気配もない。声をかけられたくないから、カモフラージュしているのだろうか。でも、糸島に声をかける人間なんて俺くらいしか居ないけれど。

 次は何を言おう、と考えていると、「……〝まんじゅうこわい〟」と糸島がぽそっと言った。ぼそ、ではなく、ぽそ、だ。

……?

 まんじゅう? と俺は繰り返し、それは「何の話?」という疑問だったが、もちろん糸島がその疑問を汲み取ってくれるはずもなく、ふたたび沈黙が訪れた。

 糸島が瞬きをして、俺は、息を飲む。糸島にべらべらと話しかけてしまうのは、黙っていると柄にもなくどきどきするからだ。もともと動きがないので、逆にちょっと動くだけでも存在感があって、俺はいちいちびくっとしてしまう。薄い唇から出る声は、高くもなく低くもなく、鼻にかかった甘い声だ。

 結局、会話らしい会話は出来なかった。糸島の隣の隣、俺の隣の隣の隣に座っている金髪ギャルに見つめられながら、俺は全然味のわからない状態でキーマカレーをせっせと口に運んだ。時々、「結構いけるんだけど」とかひとりごとを呟いたりして、その頃になると金髪ギャルも俺に少し同情しているように見えた。そう、第三者から見れば同情されてもおかしくないくらい無視され続ける不憫な俺だったが、心の中はガッツポーズの嵐だった。

 糸島が、隣にずっと座っていた。席も立たないし、うるさいなという顔もせず、瞬きをしたり時々ウォークマンをいじったりしながら、俺の隣に座っていたのだ。そんな事が嬉しいなんてどうかしてる、と思うけど、他の人じゃあこうはいかない、と思う。俺だからだ、と、思い込む。

 ところで、〝まんじゅうこわい〟って、一体誰なんだろう。誰の曲なんだろう。

 

 

 その謎は、昼休みの直後に解けた。水玉のタオルハンカチと携帯用の歯磨きセットを持ってフロアのロッカーに戻ってきた風子さんが、教えてくれたのだ。

「風子さん」

 制帽を被るために髪を手早くおだんごに纏めながら、風子さんが俺を見下ろした。見下ろしたのは、俺がしゃがんでいたからだ。更衣室のロッカーとはべつに、各フロアに貴重品や弁当を入れておく個人ロッカーがある。俺は、一番下の棚にある場所を使っている。

「なあに?

 風子さんの声は、優しいお母さん、というイメージそのものだ。でもうちの母親はもっと迫力があってドスの利いた声なので、それは俺が勝手に思い描くお母さんでしかないのだが。

「〝まんじゅうこわい〟って曲、知ってます? あ、曲かどうかはわかんないんっすけど。もしかしたら昔のバンドとか?

 言いながら立ち上がると、風子さんの視線もそれに合わせて下から上に移動した。風子さんは、小さい。くるっと纏めたおだんごを、制帽に入れ込んだつもりのようだったが、耳の後ろからおくれ毛が出ている。なおしてあげようかな? と手を出しそうになったけど、失礼かもと思ってやめた。

 風子さんは何度か瞳を瞬かせた後、堪えきれなかった、というふうにぷっと噴き出した。

「コ、コジカちゃん、それ、曲じゃないしバンドじゃないと思う。〝まんじゅうこわい〟ってお話、知らない? たぶん落語だよ」

「へ? ラクゴ? ……落語って、あの、笑点とかそういうやつですか?

 俺の言葉に、風子さんは更に肩を揺すって笑う。

「間違ってるとも言い切れないけど、ちょっと違うかな。テレビでも放送してるけど若い子は見ないよね」

 そんなに笑える事を言ったつもりではなかったので、ともすると涙が出そうなくらい笑っている風子さんを、俺は口を開けて見ていた。そうこうしていたら橋本さんたちが食堂から帰って来て、そんな俺たちを見て一瞬止まった。俺の勘違いでなければ、風子さんも一瞬止まった。

「あらあ。風子ちゃんとコジカちゃん、内緒話? 仲良しねえ」

 にやにやと笑いながら言ったのは、吉田さんだ。風子さんの名字も吉田で、吉田さんが二人になってしまうから風子さんは下の名前で呼ばれているのだ。大体皆五十代で、風子さんより年上というのもあると思う。

 吉田さんは、何かにつけてこういう事を言ってくる人だ。誰それは男の人の前だと声色が変わる、とか、誰それは旦那と不仲だ、とか。俺にもよく、「彼女とは上手くいってる? 結婚とかも考えるでしょうに」とか言ってくる。別れたなんて、口が裂けても言えない。

 風子さんが困ったように苦笑いをしているので、「吉田さん、〝まんじゅうこわい〟ってなんすか?」と、俺は言った。

 吉田さんも橋本さんも、アンチ糸島の東原さんもきょとんとしていたが、風子さんだけがほっとしたように密かに笑った。

 

 

 コスモタウンショッピングモールが出来たのは、俺が糸島塗装興業株式会社で働き始めてすぐだ。だから、もうすぐ二年になる。パートのおばさんたちが、「ずいぶん大きいのが出来たわねえ、スーパーも大変ねえ」とか、「映画館なんか、十二時までやってるらしいわよ。中高生のたまり場になったりしなきゃいいけど」とか、「あそこ、何年か前はボウリング場だったわよね確か」とか言っていたのをよく覚えている。入社したての俺は、口々に喋るおばさんたちに圧倒されながら、でも一応、そうなんですかあ、と何度も頷いていた。

 一年以上前から駅前にどんとそびえ立っているそこに足を踏み入れるのが初めてなのは、電車に乗る習慣がないから、というのと、俺の住むアパートとは職場を真ん中にしてまったく反対方向にあるから、という理由からだった。

 一階のフードコートではなく、二階の専門店街にあるコーヒーチェーン店で会おうとアツシが言ったので、俺はいったん四階まで上がってタワレコでCDを数枚買ってから二階に下りた。

「よ」

 着ていたダウンジャケットを脱いで、二人掛けのソファの壁側の席に置いた瞬間に後ろから声がした。振り向くと、寒さに鼻の頭と頬を赤くしたアツシが笑顔で立っていた。

「よっす。今日もマジ寒いな。原付こたえるわ」

「だよな。俺は職場が近いからまだマシかなあ。でも寒いけど」

 同じような会話が、日本中で繰り広げられているのだろうな、と思った。昨日も今日も、今この瞬間も。

 甘党のアツシはキャラメルナントカ(いつまでたっても覚えられない)で、甘党ではないけれどブラックは飲めない俺はカフェラテを頼んで、それを持ってソファに掛けた。

「メール、皆に送ってくれたんだな。ありがとな。ほんとうだったらリーダーの俺がしなきゃいけない事なのに」

「業務連絡みたいな一斉送信だよ」

 笑いながら、熱いカフェラテを冷ましたくてプラスチックの白いふたを開けた。

 厳正なる審査の結果を、誰に一番に伝えようか悩んだ結果、結局バンドメンバー全員に一斉送信したのだ。「この前デモテープ送ったとこ、だめでした」という一文のみ。ドラムのリョウタとヴォーカルのケンゴからはまだ何の反応もないが、リーダーであるアツシからは、「ちょっと話したい事があるんだけど」というメールが届いた。アツシの職場と俺の職場の中間地点で集まりやすい場所、というわけで、コスモタウンショッピングモールに初めてやって来る事となったのだ。

「話の内容、薄々は気付いてると思うんだけどさ」

 アツシは、自動車部品を扱う工場で働いている。丸顔のベビーフェイスと、オイルやら鉄さびやらで黒くなっているがっしりした手がちぐはぐで不思議な感じだ。

「バンドの事だよな?

「うん」アツシが小さな声で頷く。気付いてるから、そんな言い出しにくそうな顔すんなよ、と俺は思う。

「そろそろ、かなって思うんだ」

……

「俺さ、勝手な話なんだけど、今回だめだったら諦めようって決めてたんだ。諦めて、地元帰って親の仕事継ごうって」

「実家、どこだっけ」

 カフェラテを口元まで持っていったが、まだまだ熱そうで怖気づいた。飲まずに、カイロがわりに手のひらで包み込む。

「岡山」

「岡山か。あー、そうだよな。専門学校で出会った時、お前なまってたもんな」

 うるせえよ、とアツシが笑い、俺も笑う。

「親御さん、スーパーやってんだよな?

「そうそう。地元密着の小っさい店だけどさ、でも一応二店舗やってるんだぜ。最近ではネットショッピングも始めたとか言っててさ。まあ姉ちゃんに任せっきりみたいだけど、そっちのほうは。でも、姉ちゃんももうすぐ子供生まれるし、そうなったら、まあ、俺の出番かな、と。父ちゃんは何も言わないけど、母ちゃんは帰ってきてほしいって言うんだよな。うん」

 最後のほうは、俺に説明しているというよりも自分に言い聞かせるようだった。俺も「まあ、そうだな、うん」と、アツシと同じような口調でとても曖昧な感じの口調で言う。

「リョウタとか、ケンゴにはまだ?

「うん。まだ。……実はさ、これはまだ、内緒にしてくれって言われてるんだけど、リョウタのやつ、他のバンドから誘われてるんだよ。何度か対バンの時に一緒になった××ってバンド、覚えてる?

 アツシが口にしたのは、最近インディーズ市場でじわじわ人気の出ているバンドだ。大きめのライブハウス(出演のためにオーディションを受けなければならない有名なライブハウスだ。合格しないと出られない上に、合格しても金を払わなければ出られない。払わなくても出られるやつも、たぶん、居る)で、二度ほど顔を合わせた事がある。

 ヴォーカルはもちろん、ギターもベースもイケメンのスリーピースバンドだ。その見た目に似合わぬ芯のある重い演奏と、ヴォーカルの飛びぬけた歌唱力が印象に強く残る、ちょっと別格のバンドだった。

「あのバンド、メジャーデビューの話があるんだって。それで、リョウタを、ドラムとして迎えたいって言ってるんだとさ」

「えっ」

 ぽかん、としてしまった。俺の間抜けな顔と声に、アツシが笑った。笑っているアツシも、どこか間抜けな感じが漂っていた。間抜けで、わびしい感じ。

「リョウタは迷ってるって言うんだけどさ、迷ってるのって、俺たちに遠慮してるんだろうなと思って、俺、〝せっかくのチャンス逃すなよ!〟とかカッコつけて言っちゃったよ。お前やケンゴにもそろそろ言ってくるだろうから、その時はさ……

 わかってるだろ? という顔だった。アツシの、ちょっと困ったみたいな、何かを丸く収めようとする時のこういう顔が、俺は好きだった。二つ年下のケンゴなんかは、そういうところが頼りないと思っているようだったが、アツシみたいな人間が、人と人との関わり合いを円滑にしてくれるのだと思う。リョウタじゃ真面目すぎるし、ケンゴはつんつんしているし、俺は……いつもヘラヘラしているだけだし。同じようなヘラヘラに見えても、アツシのそれは適度だ。

「うん。格好つけて、送り出してやるわ」

「ふつうに送り出せばいいんだっつうの」

 アツシが笑う。それからふと、珍しく真面目な顔になって、「俺、でも、今回、いいとこまで行けるんじゃないかなって思ってたんだよな。だからちょっと、すっきりしてる。今回送ったデモテープは、よかったよ。あれでだめだったなら仕方ないかって思えるくらい。香鹿の作った曲選んで、やっぱり正解だったなって思ってる」と言った。

 落ち着いていて、優しくて真剣な声だったので、とっさに何も答えられなかった。

 俺たちのバンドの曲は、いつもアツシと俺とが共同で作っていた。曲を俺が作った場合、詞はアツシが書く。出来上がったものを擦り合わせ、気になるところは変えていく、というふうに。

 でも、今回レコード会社のオーディションに送った曲は作詞も作曲も俺がした。俺たちのバンドには珍しいバラードで、アツシとリョウタは「凄くいい」と褒めてくれた。「でもオーディション向きじゃない」と言ったのはケンゴで、俺自身もケンゴの意見に賛成だったのだが、最終的に「これで行く」とアツシが譲らなかった。珍しい事だった。

 アツシがそこまで言ってくれて嬉しかった。嬉しかったけどでも、これで落ちたら、と思うと恐かった。そして案の定不合格で、もっと落ち込むかと思っていたらほっとしている自分が居て、がっかりした。

 曲のタイトルは、『K』という。薫の、Kだ。糸島、薫の、Kだ。笑いたければ笑うがいい。むしろ、笑ってくれたらありがたい。

 

 

 広い社員食堂の、端っこの長机の左から三番目の席に今日も糸島は座っていた。右隣は、空いていると見せかけて金髪ギャルが鞄置きに使っている。一番左端は猫背のおっさんが座っていて、糸島とおっさんの間の席は、

「お疲れっす」

 二日連続、空いていた。

 ラーメンの乗ったトレイをがしゃっと置きながらそう言った俺に顔を上げたのは、糸島ではなく彼の隣の隣の席の金髪ギャルだった。今日も化粧直し中だ。ファンデーションではなく、マスカラを重ね塗りしている。

「お前今日もなんも食わねえの? 倒れるぞそんなんじゃ」

 糸島は、今日も何かを食べているようすも食べた形跡もない。小さなウォークマンが長机の上にぽつりと置いてあるだけだ。

「ラーメンちょっと食う? あ、チャーハンもあるけど」

 トレイを滑らせてラーメン大とチャーハン小を糸島の目の前に差し出してみたが、もちろん何も反応はなかった。朝ごはんを食べない人は多いが、昼ごはんを食べないというのは珍しい。宇宙のとある星からやって来た糸島星人は、食物以外から栄養を摂取出来る能力でも備えているのだろうか(なんちゃって)。

 俺は仕方なく、イタダキマス、と小さく言ってからラーメンを啜った。ちらっと目線だけ上げて隣の糸島を見てみるが、俺に頓着するようすはまったくない。昨日は、嫌がらずに俺の隣に居てくれた、と思っていたけれど、嫌がるも何も見えていないだけなのかもしれない。そう思うと落ち込む。

……あ、なあ。〝まんじゅうこわい〟って、面白いな。俺、落語って初めて聴いた。もっと難しいもんかと思ってたけど、ゆうべ聴きながら、一人でげらげら笑っちゃた」

 昨日、タワレコで落語のCDを買った。店員に、「まんじゅうこわいってあります?」と訊ねたら変な顔をされたが、「落語の」と付け加えたらわざわざ探してくれた。どんなものか見てみたかっただけなのだが、変なところで気の小さい俺は、探してもらったからには買わなくちゃなあ、と思って、買った。

 どうせ無視されるだろう、と思いながらふった話題だった。でも、俺の予想は大きく外れ、糸島が顔を上げた。

……聴いたの?

 しゃ、しゃべった! と思ったのは俺だけではなかったらしく、糸島の肩越しに、物凄く驚いている金髪ギャルの顔があった。俺は勢いよくラーメンのどんぶりをトレイに置いて、「き、聴いた」とぎくしゃく答えた。

「誰のを?

「あ、よくわかんなくて、店員が探してくれたやつを適当に。えっと、なんだっけ、桂……? 枝って字の、」

「桂枝雀?

「あ、そうそう。そんな名前」

「関西弁、むずかしくなかった?

 会話が続いている、と思うと、食事なんてする気にならなかった。糸島は腰を捻って、わざわざ身体を俺のほうに向けている。濡れた黒い瞳に、俺が映っている。

「あ、俺、母親の実家が関西だから。親戚とかじいちゃんばあちゃんとか、関西弁なんだよ。だから結構聴きやすかったよ。い、糸島は、苦手? 関西弁」

「ううん」糸島が、首を横に振る。さらさらと、黒髪が揺れる。

「俺、江戸落語よりも上方落語のほうが好き」

「そう、なんだ」

 エドラクゴでもカミガタラクゴでも、どうでもいい、と思った。糸島と会話をしているのだ。

「いいな。関西に親戚が居るんだ」

「行ったことない?

 嬉しくなって、俺は訊く。

「小さい頃に、旅行で一度だけ。京都に」と糸島が答えたので、「行きたくなったら、言えよ。俺のばあちゃんちでよければ泊めてやるし。あ、関西って言っても大阪のど真ん中とかじゃなくて、兵庫の田舎だけど。でも、大阪とか京都も、日帰りで行けるし」と言ってみた。声を高くする俺を、金髪ギャルがちらっと見る。でも、全然気にならない。

 糸島は、うん、とも、ううん、とも言わなかった。少しだけ目を細めて口の両端をわずかに上げた。そうすると、黒目がちな瞳がますます強調されるように思えた。そうして、その視線を俺からウォークマンの画面へと移した。

 笑顔だ、という事に気付くのが遅れたのは、それがあまりにも小さな表情の変化だったから、というわけではなく、その密やかさが尊く思えて、簡単に笑顔だと俺の頭が認識出来なかったのだ。そういう感じの笑い方だった。わかりやすい言葉を使うなら、寂しそう、という感じ。でも、違うな、もっとそんなふうに考えながら、糸島の横顔を見つめた。どう考えても不審な俺を、不審げに、金髪ギャルが見ていた。

 

 

Q.職場に、無視しても冷たくしてもめげずに話しかけてくる同僚が居ます。わたしの趣味について、わざわざ調べて話しかけてきます。約束もしていないのに、社員食堂では必ず隣に座ってきます。同僚は、わたしに気があるのでしょうか。

A.そりゃあ、気があるんでしょう。

 

 ……という、男女であれば簡単な事が、男男になっただけでちっとも上手くいかないような気がする。でも、男男だからそうなのか、それとも相手が宇宙人だからなのか。とにかく、糸島は俺の気持ちに微塵も気付かない。

 この数週間で、洋楽ロックばかりだった俺のCDラックに、落語名人寄席、とか、ザ・ベスト・オブ落語、とかいうCDが三枚も増えた。ちなみに、DVDも一枚ある。食堂では、必ず糸島の隣の席に座っている。一度、彼の左隣が空いていなかった時など、わざわざ金髪ギャルが自分の荷物をどけてくれた事もあった。満面の笑みで「どうもっす」と頭を下げると、金髪ギャルは無表情だったが意外と可愛い声で「いーえ」と同じように頭を下げた。糸島は相変わらず食事を取らないが、飴やチョコレートを持って行くと、おずおずと一粒口に含む。その時のちょっと警戒した感じは、宇宙人ではなく小動物っぽくて凄く可愛い。

 会話らしい会話はあまり出来ないが、落語の話以外もするようになった。天気の話とか、気温の話とか、まあ、そういう事。糸島が小さな手で、重い備品の入った段ボールを持ち上げようとする時、俺はどんなに遠くに居ても走って行ってそれを持ってやる。そうすると糸島は、ちょっと戸惑ったみたいに眉を下げて、口の端をわずかに上げる。変なやつ、とでも思っているのだろうか。でも、その笑顔とも言えない微妙な表情の変化が見たくて、俺はいつも糸島の傍に寄って行く。

 いつものように食堂に行くと、糸島は広い食堂の隅っこの長机の、左から二番目に座っていた。いつもは三番目なのに。一番左はおっさん、二番目が糸島、その隣が空いていて、その隣も空いているけどたぶん金髪ギャルの鞄が置いてあって、その隣に金髪ギャルが座っている。

竜田揚げ丼(本日のおすすめ、三百五十円也)の乗ったトレイを持って傍まで近寄って行くと、糸島の右隣の席には、文庫本が置いてあった。誰かが席を取っているという印だろう。

……空いてねえのかよ)俺は心の中で呟く。

(っていうか、取っといてくれてもいいんじゃねえの。そろそろ。俺が来るって、わかってんのに)

 俺が勝手に糸島を好きで、勝手に隣の席を陣取っているだけなのに、そんなふうに思うのはお門違いだろうか。でも、ねえ。

 ぼうっと突っ立っている俺に気付いたのは、糸島ではなく金髪ギャルだった。ちらっと俺を振り返ってから、数秒考えて、長机の、糸島がウォークマンを置いているあたりをとんとんと指で打った。最近の若者は、コミュニケーション能力が低い。

 金髪ギャルに促されて、糸島がこちらを向く。往生際の悪い俺が名残惜しそうに糸島の隣の席を見ていると、糸島はその席に置いてあった文庫本をそっと退けた。

「えっ」

 思わず大声が出て、金髪ギャルと、一番左のおっさんが振り向く。糸島はもう壁のほうを向いている。

「え、なに、取っておいてくれたわけ? 俺の席?

 糸島が文庫本を退けたその席に座りながら、大声のまま訊ねた。おっさんが迷惑そうに眉を顰めるのが視界に入ったが、そんなのに構っているわけにはいかない。糸島が、俺の席を取っておいてくれたのだ。

「右のほうがいいんだ」

 ぽつり、と糸島は言う。小さくて、鼻にかかった甘い声。

「え?

「右側に、座ってくれたほうがいいんだ。俺、左の耳があんまり聞こえないから」

 え、と俺はふたたび言った。さっきから、え、ばっかり言っている。

「じゃあ、無視してたわけじゃなくて、聞こえてなかったって事? 今まで」

「ムシ……

 糸島の黒い瞳が宙を見る。俺も、その場所を追う。

「してた、ときも、あるけど」

「あるのかよ」

 無視するなよ。こっちは必死だったんだ。いや、現在進行形で、必死だ。

「でも、香鹿の声は、聞こえやすいよ。他の人に比べて。だけど、話すのには右側のほうがいいから」

 驚きすぎて声が出なかった。目を真ん丸にして糸島を見ていると、糸島もちょっと目を大きくして俺を見ていた。大きな黒目だな、と何度思ったかわからない事をまた思う。

「なんで、そんなに驚いてんの?

「糸島、俺の名前、知ってたんだ」

 初めて呼ばれたから、と俺は言った。半ばひとりごとのような小さな声になってしまった。嬉しさが今さら込み上げてきて、手のひらで心臓のあたりを抑えると、そこはどくどくと脈打っていた。糸島は、太い眉を片側だけ下げて、「知ってるよ。あたりまえじゃん」と、ぽそっと言った。何だかばつが悪いみたいな顔だった。眉根を寄せて、薄い唇をちょっと尖らせて、「ちゃんと、知ってるよ」ともう一度念押しするように言うのだった。

 何か言いたくて口を開いたが、言えなくて黙っていた。

 俺の初恋っていつだったかな、と考えた。たぶん、中学に入ってからだ。小学生の時にだって、クラスにちょっと可愛いなと思う女の子が居たけど、でもまだまだ男子同士で遊んでいるほうが楽しかった。女はくねくねしていて、いつも女同士でべったりしていて、何か面倒だなと子供心に思っていた。中学二年の時、隣のクラスの美人を好きになった。でも、物静かで賢そうな彼女は俺とは住む世界の違う人で、一つ年上のバスケ部の先輩(もちろんイケメン)と付き合っているという噂もあったので、話しかけてみる事すらなかった。

 それを、やりなおしているみたいだな、と思う。相手は男だけど。

 糸島は、話せば話すほど不思議だ。俺が知っている事を糸島は知らないし、糸島が知っている事を俺は知らない。たとえば、糸島は味噌汁は味噌とお湯で完成するものだと思っていたし、俺は〝シンチョウブンコ〟は〝新潮文庫〟と書くのだという事を知らなかった。俺は今時のスマホはアプリさえ使えば海外に居てもタダで連絡が取れるのだと糸島に教えてやり、糸島は中国語で一から十までを教えてくれた。でも全然頭に入って来なかった。教えてくれる、糸島の口元ばかり見ていた。

 糸島の声は相変わらず小さかったけれど、二人でそうやって話をする時は仕事場に居る時ほど愛想がないわけではなかった。

「なんでいっつもそういうふうに話さねえの?

 原付を押して糸島と並んで歩きながら、俺は訊ねた。残業を頼まれなかった日は、こうして二人で帰るようになっていた。

……恐いから」

 糸島は、紺色のモッズコートを着ている。内側がボアになっているそれはなんとなく頼りなげな糸島の身体をすっぽり包み込んでいて、遠目から見ると着ぶくれしてコロコロしている。つまり、凄く可愛いという話。

「恐い?

「俺、人より出来ないことが多いから。手が凄く小さくて、その所為かはわからないけど、あんまり重いものが持てないし、足も、隠してるけど小さくて……。身長のわりに足が小さいとこけやすいって、知ってた? 走るのも遅いんだ。本を読むのは好きだけど、勉強は全然出来ない。成績はいつも下の下。それに、耳が聞こえにくくて、よく〝無視した〟って思われる」

 訥々とした話し方だった。ポケットに手を入れて、寒さに鼻を紅くして話す糸島に、俺は見惚れていた。いつも足を引き擦るみたいにしてだらしなく歩くのはわざと大きいサイズの靴を履いているからなのだと、気付いたのはつい最近の事だ。

 俺と居る時みたいに話せば、橋本さんも東原さんも、とにかく職場の皆が、糸島を好きになるだろうと思った。贔屓目ではなく、小さな声で一生懸命話す糸島の態度は可愛いだけでなく誠実に思えたし、何よりおばさんというのは、若い子に優しいものなのだ、元来。きっと、糸島がそういう理由で心を閉ざしていたと知れば

 と、ここまで思って、「やっぱりこのままがいい」という気持ちがむくむくと湧いてきた。 今のままなら、糸島を独り占め出来ると、卑怯な俺は考えた。糸島の唯一の友達。俺だけが糸島を護ってやれる。そうだ、それがいい。

「俺は」原付を押していた手を止めて、立ち止まって言った。

「俺は、糸島の味方だから」

 決まったぜ、と思った。告白とまではいかないが、お前を特別に思っている、と示せただろうと。

 俺の言葉に、糸島は唇の両端を持ち上げた。その笑顔が凄く寂しそうで、なんで? と訊ねたくなった。なんでだよ、俺が、居るじゃんか。

 糸島の言った〝恐い〟という言葉の本質的な意味を、この時俺は、ちっともわかっていなかった。

 

 

 バンドの集まりがないと、土日の休みは頗る暇だ。土曜日、昼過ぎに起き出し、冷蔵庫を開けてみて、水と牛乳とかぴかぴに乾いた食パンしか入っていないのを確認し、仕方なくもう一度ベッドに潜り込んだ。風子さんも言っていたけれど、寒いとどうしても動きが鈍くなる。身体だけではなく、頭も。

 汗臭い布団にくるまりながら、この布団、前洗濯したのいつだっけ、と思った。彼女が居た時は、土曜か日曜に彼女がやって来て部屋の掃除をしてくれた。何も入っていない冷蔵庫を覗いてため息を吐き、買い物に行って食事を用意してくれた。それは、別れる寸前まで続いていた。〝習慣〟になっていたのだ。

 しんとした部屋に一人で居ると、そういう事を色々と思い出した。彼女の事、バンドの事、数ケ月電話もしていない親の事。誰も俺を責めたりしないのに、俺は、凄く息が苦しい。

 糸島、と心の中で呼んだ。こうなってくるともう、精神安定剤のようだった。糸島と一緒に居る時は、取り戻したかった自分にもう一度新しく出会っているような気持ちになれる。糸島に、もっと必要としてほしい。食堂で俺を待っている(待っている、って、思いたい)あの後ろ姿を、抱きしめたい。身長のわりに小さな手足に、直に触れてみたい。

 汗臭い枕に顔を埋めていると、携帯電話が震えた。まさか糸島だったりして、と思った。一応番号は交換済みだ。電話もメールもした事はまだないけれど。でも画面を見て、更に気が重くなった。小さな液晶画面には〝リョウタ〟と表示されていた。

 リョウタは、二十一歳の現役大学生だ。なんと、現役薬科大学生。二つ年下のケンゴの弟の友達で、その弟と一緒にライブを見に来てくれたのが初めての出会いだった。アツシと俺とケンゴは専門学校で出会い、その頃からバンドをずっと組んでいて、ドラムのメンバーも同じ学校の仲間だった。そのドラムはでも、専門学校を卒業すると同時に辞めてしまった。遊びでやっていたから、というのが彼の言い分で、本気でやっていたケンゴは怒りまくったが、丸く収める事を第一としているアツシと、とりあえずその場をやり過ごす事しか考えていない俺は、曖昧に笑っていた。ケンゴはたぶん、俺たちに対しても怒っていたと思う。

 そのドラムが抜けたあとは、ライブの度に知り合いのバンドに頼んで臨時でドラムをしてもらっていた。そろそろ本腰を入れて探そうとなった時、打ち上げという名の、ぐだぐだした飲み会で、ケンゴが俺たちにリョウタを紹介したのだ。「今風のひょろっとした若者」というのが俺の印象で、「いかにも弟」というのがアツシの印象だった。リョウタは背が高く、顔が小さく、骨組みが華奢で長い手足がひょろひょろと細かった。ドラムなんか叩けるのかと訊いたら、「吹奏楽部で、打楽器でした」と言われて拍子抜けした。が、吹奏楽部を侮った俺が愚かだった。リョウタのドラムは正確で、楽譜どおりなところがちょっと物足りないけれど、そのリズムが刻み込まれると、バンド全体が引き締まるのだった。

 才能、と言うと、リョウタは不本意に感じるかもしれない(でも、顔にはきっと出さない。そういうやつだ)。だが世の中には、才能のあるやつと、才能のないやつが居るのだ。リョウタは、前者だ。

「久しぶり」

 指定したファミレスは、土曜の昼下がりらしく家族連れでごった返していた。運悪くボックス席に案内されてしまったらしいリョウタは、俺が来るまでさぞ肩身が狭かった事だろう。俺を見るとほっと頬を緩ませ、小さく頭を下げた。緩いパーマのかかった茶色い髪が揺れる。

「アツシの話、聞いた? 実家帰るって」

「あ、」

 座るや否や俺がそういう話題を切り出したので、リョウタはぽかんと口を開けた。それから形のいい眉を下げて、「はい……。バンドは、もう、やめるって……」と、ほんとうに悲しそうに呟いた。いいやつ……というか、いい子すぎてますます自分が情けなくなる。なんとなく。

「まあ、俺も潮時かなって思ってたんだよな。俺ら今年二十八だしさ。ケンゴやお前は、まだまだ若いからいいけどさ」

「ケンちゃん、凄く、落ち込んでます。おれ、上手く慰めたり、出来なくて」

 ケンゴの事をケンちゃん、と呼ぶのはリョウタだけだ。キレやすく、調子のいい時と悪い時の波が激しいケンゴを、俺もアツシもそんなふうに親しんで可愛がってやれない。ケンゴ自身も、年上に可愛がられるキャラではない事はわかっているようで、俺にもアツシにも対等にぶつかってくる。そういうところが疎ましくもあるけれど、一番バンドに真剣なのがケンゴだという事を、俺たちは皆わかっていた。だから、ケンゴにはあまり会いたくなかった。ぶつかってこられるのは、正直しんどい。

「仕方ないよ。物事にはタイミングってもんがあるしさ。見切りつけたアツシを立派だと思うし、落ち込むくらいマジに取り組んでるケンゴもすげえと思うしさ」

 先輩っぽく言いながら、それでお前はどうなんだ、と自分自身に問いかける。

 忙しさに笑顔を忘れたウエイトレスがやって来る。「ご注文がお決まりになりましたら」と言うところまで聞いて、ドリンクバー二つ、と早口で伝えた。ウエイトレスは、素早い最少の注文にほっと胸を撫で下ろし、「かしこまりました。あちらのドリンクバーをご利用ください」と言って去って行く。高校生くらいの子だった。

「あ、悪い。腹減ってた? 何か頼みたかったら言えよ」

 俺が言うと、「大丈夫っす」とリョウタは首を横に振った。小さい頃からこのままの顔なのだろうな、と想像のつく、一重瞼の育ちのよさそうな顔を、緊張で強張らせながら。

 知ってるよ、とでも言ってやろうか。知ってるよ、アツシから聞いた。あのバンドに誘われるなんてすげえじゃん。しかもメジャーデビューだろ? おめでとう、と。その一言が言えたら、俺も少しはこの遣る瀬無さから抜け出せるはずだ。

「おれ」リョウタが、結んでいた口を開く。「おれ実は、××ってバンドに、ドラムをやってほしいって言われてて」

 えっ、と俺は言った。わざと目を大きく開いて、ちょっと身を乗り出して。

「ほんとうは断るべきだって、ちゃんとわかってたんですけど、悩んじゃって、アツシさんに相談したんです。そしたら、アツシさんがバンドやめるつもりだって、おっしゃって……

「〝オッシャッテ〟」

 丁寧過ぎるリョウタの言葉をからかうように繰り返すと、リョウタの表情が少しだけ柔らかくなった。

「おれ、ドラム叩くの、ほんとうに好きなんです。最初はバンドとかちっとも詳しくなくて、ロックもパンクも全然わからなくて、でもアツシさんや優人さんや、ケンちゃんに色々教えてもらううちに、どんどん本気になって……。本気で、やってみたいんです」

 話しながら、リョウタの頬が子供のように赤くなる。夢を語る若者らしくきらきらしていて、汗臭い布団から這い出てきた俺には、ちょっと身体によくない症状が出そうなくらい眩しい。

「うん。それで、じゃあ、××でやってみるんだ」

はい」

「いいじゃん。頑張れよ。俺も、バンドが解散したからって、リョウタがドラムやめるのは勿体ないって思ってたし」

 先輩っぽーい、と頭の中の俺が茶化す。ほんとうは、そんな事考えちゃいなかった。

「ありがとう、ございます」

 リョウタの瞳に、涙が滲んでいる。赤くなった鼻先をパーカーの袖でごしごしと擦るので、更に赤くなる。おいおい、真っ赤になってんぞ、とまたからかおうとした時だった。顔を上げたリョウタが、緊張の解けた笑顔で言った。

××、ダイナスミュージックから、メジャーデビューの話があるんです。まだ契約とかは先なんですけど」

 えっ、と今度は本気で驚いて言った。メジャーデビューの話は、知っていた。でも、レコード会社の名前までは、知らなかった。ダイナスミュージックって、お前、俺らがこの前厳正なる審査の結果、オーディションに落ちた所じゃないか。

 俺がいつまでも呆けているので、不安になって来たのか、リョウタが表情を曇らせた。そこでやっと正気に戻って、「すげえじゃん! おめでとう!」と俺は笑った。俺の大声に、通路を隔てて隣の席の家族連れが振り返った。リョウタは恥ずかしそうに、でも、ほっとした顔で笑っていた。

 抜け出せるはずだ、と思っていたけれど、「おめでとう」と言った自分の心の中がひどく澱んでいて、その言葉を発したがゆえにそれに気付いてしまって、更に抜け出せなくなった。  才能もちろん、それもある。リョウタには、技術的な才能だけでなく、人の心を掴む才能が、ある。華とでも言えばいいのだろうか。でも彼の一番の才能は、努力出来る才能なのかもしれない。先ほど本人も言っていたとおり、リョウタはロックやパンク、というか、バンド全般に関する知識がまったくなかった。シドもカートも知らなければ、オアシスもコールドプレイもあまり聴いた事がなく、エアロスミスといえばアルマゲドンの歌、だったリョウタはしばしばケンゴに叱咤されながら、それでも頑張っていた。楽譜どおりの自分のドラムが面白くないと言って、俺たちが持っていたCDを片っ端から聴き、来る日も来る日も練習をしていた。親にバンドをやめろと言われたくないからと、大学の勉強にも手を抜かなかったというのは、ケンゴが弟伝いに聞いた話だ。本人はもちろんそんな事は言わない。

 それを才能と一言で片づけるのは違うのかもしれない。でも、自分に出来ない事は、すべてその人の才能のような気がする。現実を見据えて見切りをつけられるアツシの才能。メールの返信も出来ないくらい(アツシにも連絡はないそうだ。電話をかけても出ないという)、落ち込めるケンゴの才能。俺には、ない。

「優人さんがそうやって明るく励ましてくれる事に、これまで凄く支えられてきました。不安だらけですけど、頑張ります」

「いやいや、俺なんか何もしてねえよ。全部リョウタの努力だろ。これからも応援するからさ」

 どうやら上手く笑えているらしい。リョウタは頬を上気させながら、安堵に声音を高くする。ありがとうございます! ともう一度力強く言ったあと、ほんの少しトーンを落として、「でも、おれ、優人さんの曲で、オーディション受かりたかったな。『K』ほんとうにいい曲だと思うんです。色々お忙しいとは思うんですけど、作詞も作曲も、やめないでくださいね」と言った。

 きらきらしたリョウタの、子供みたいに赤い頬を俺はグーで殴った。そして、いいかげんにしろよ! と叫ぶ。お前、ダイナスからデビューするくせに、何調子のいい事言ってんだよ!どうせ俺らの事、馬鹿にしてんだろ!

 ……という妄想をしてみて、「いやいやいや、それはないわ」と一人ツッコミをして、笑って、終わらせる。俺は情けないアホだけど、リョウタが俺やアツシやケンゴをほんとうに好きで慕ってくれていて、今回の事を決断するのに物凄く悩んだのだろうなという事を理解出来るくらいの頭は、ある。

 

 

 これからケンちゃんちに行ってみようと思うんですけど一緒に行きませんか、というリョウタの誘いを断って、原付に乗って家に帰った。リョウタのきらきら菌が俺の身体のあちこちを蝕む。もう今にも倒れそうだ、と思う。

 思いながら、うちの冷蔵庫に水と牛乳とかぴかぴに乾いた食パンしかない事を思い出し、コンビニの前で原付を停めた。食欲はそんなになかったが、何か胃に入れば眠れるかもしれないと思ったのだ。

 眠って忘れる、これが香鹿流だ(いばることか)。

 寒さに肩を縮こまらせながらコンビニのドアを押し開けると、その瞬間にポケットの中の携帯電話が長く震えた。またリョウタかな、と思うと、取り出すために一旦ポケットに入れた手が止まった。リョウタか、もしくはリョウタに諭されたケンゴか……

「わっ」

 液晶画面を見た俺は、思わず大声で叫んだ。雑誌のコーナーで立読みをしていた男が眉を顰めてこちらを見た。画面には、〝糸島薫〟と表示されていた。

「はい、もしもし」

「あ」

 自分からかけてきたのに、電話口の糸島は戸惑っていた。その証拠に、「出ると思わなかった」と小声で言った。

「何? どうした?

 ドアの前で立ち止まって話し始める俺を、今度はレジの中に居た店員がじろっと睨む。俺はとりあえず外に出た。

……うん」

「うん? 何。あ、べつに何もなくてもかけてくれていいんだけどさ」

 早口で言うと、糸島が電話口でふっと息を漏らした。笑ったのかな、と思って、その顔が凄く見たいと思った。

「香鹿、寒そうだね」

「へ?

「道向かい、見てみて」

「へ?

 コンビニ側に身体を向けていた俺は、腰を捻って振り返った。前の道路の向こう側に、紺色のモッズコートを着た糸島が立っていた。

 想像もしていなかった糸島の登場に、俺は馬鹿みたいに口を開けたままその方向を見ていた。糸島も、かけてみたはいいものの手持無沙汰という感じで、携帯電話を耳に当てたまま俺を見ていた。俺たちの間を車が何台も通って行って、トラックみたいな大型のものが通るたび、糸島の姿が見えなくなる。だからそのたび、消えてしまうんじゃないだろうか、と思うけれど、車が通り過ぎてみれば、やっぱり糸島はそのままの状態で俺を見ている。

「いとしま」

 情けない声が出た。涙が出ていなかったのが不思議なくらいだ。

 糸島が携帯を耳に当てたまま、それを持っていないほうの小さな手をひらひらと動かした。

「うち、近くなんだ。コンビニ、行こうかなと思って、そしたらて、て、……

「え?

 小さな声なので、大型車が通るたびにかき消されて途切れる。

……聞こえないかな」

 道路の向こう側の糸島が、太い眉を下げて、首をちょっと斜めにした。聞こえないなら仕方ないね、というような顔だった。

「待って」

 俺は言った。待っても何も、べつに糸島は一歩も動いちゃいないのに。

「待って。俺、そっちに行くから!

 え、という糸島の声が聞こえた。通話はそのままに、横断歩道のあるところまで走った。何か首が苦しい、と思ったら首にヘルメットをひっかけたままだった。信号が青になるのを足踏みしながら待って、青になったらまた走った。コンビニの前に横断歩道作れよこんちくしょう、と思った。

「なんて!?

 俺が言ったとおり、そのままの格好で大人しく待っていた糸島に叫ぶように訊いた。至近距離で大きな声を出されて糸島は驚いていたけれど、俺の姿を数秒見たあと、長いまつ毛を上下させてから、ふ、と笑った。糸島は、泣き笑いみたいな笑い方をする。

「香鹿が見えて、なんとなく話がしたくて、って、言っただけだよ」

 ああ、と俺は息を吐きながら呟く。

「べつに、……来なくてもよかったのに」

 会いたかったんだ、と俺は思う。そういえば、こんなに走ったのはいつぶりだろう。

「腹減らねえ?

 息を整えてから、俺は言った。顔を上げて正面から糸島を見る。つるりとした、卵型の綺麗な顔だ。

……

「俺んち来ない?

 心臓が暴れていた。思えば、そこで止めておくべきだった。でも、糸島と一緒に居たかった。馬鹿みたいだけど、馬鹿みたいで子供みたいだけど、自分だけが取り残されてしまったみたいな寂しさに気がおかしくなりそうだった。寝てどうにかなるとも、ほんとうは思えなかった。打ちのめされていたところに現れてくれた糸島に、俺はその時縋り付きたかったんだ。

……香鹿のうち?

「うん。原付で十分くらいだから」

 突然の申し出に瞳をきょろきょろさせる糸島の、細い手首を掴んだ。くにゃりと柔らかいそれは、掴んだ瞬間に俺の身体を痺れさせた。

 走ってきた道を、糸島の手首を掴んだまま戻り、原付のメットインから予備のヘルメット彼女がずっと使っていたものだを出して糸島に被せた。「俺、バイク乗ったことない」と糸島が小さく言い、俺は聞こえなかったふりをして力のない腕を自分の腰に回させた。エンジンをかけると糸島がぎゅっと背中にくっついてきたので、また、身体が痺れた。

 原付を十分走らせてアパートに着く頃には、さっきまであったはずの勢いがどこかに行っていた。知らないところに突然連れて来られた糸島は、部屋の中央のラグマットの上で膝を三角に曲げて、心細そうに座っている。俺はそんな糸島を振り返りながら、どうしよう、と思った。自分で連れて来たくせに。どうしようと思いつつ電気ポットでお湯を沸かして、辛うじてあったティーバッグの紅茶を入れた。

「ピザとか、取る?

 マグカップを手渡しながら訊いてみたが、糸島は静かにそれを受け取り、首を横に振った。

「あ、紅茶に牛乳入れる?

……うん」

 冷蔵庫の中の貴重なアイテムが役に立った。踵を返して冷蔵庫まで行き、パックごと持って来ると、「どれくらい?」と詰め寄るように訊ねてしまった。

「けっこう、おおめに」

「結構、多めね」

 わかった、と言いながら慎重に注ぐ。

「ストップ言って」

……

……

 ふ、と糸島がかすかに息を出した。「え」と顔を上げると、くすくす笑っていた。危うくマグカップから溢れそうになった牛乳を、寸でのところで止めた。

「香鹿って、変わってる」

 マグカップを両手で包み、こぼれないように気を遣いながら、でも笑いが止まらないらしく糸島はずっと肩を揺らしている。宇宙人に変わっていると言われるとは、と思うと、だんだん俺も笑えてきた。牛乳のパックを持って真剣な顔をしている自分は確かに変だな、とも思った。二人で、くすくす笑った。でも俺は手放しでは笑えなかった。糸島がそういうふうに声を出して笑うところを初めて見たので、意識の半分以上をそれに持っていかれていたのだ。黒い瞳が三日月の形になる。太い眉の片方だけが下がって、薄い唇のすき間から、白い歯がちょっとだけ見える。

 キス、したいなあ。と思った。でも我慢した。俺の中の計算の出来る俺が、今じゃない、とブレーキをかけたのだ。というか、今だ! って日なんか来るのか?

「なんか映画とか観る? あ、CD聴いてもいいし。落語もあるぜ」

 立ち上がってCDと雑誌が無差別に突っ込んである小さな本棚に行くと、糸島も膝立ちになって興味深げに棚を眺めた。見下ろすと、真新しい子供のそれのような瞳と目が合った。

「それは、何?

「えっ」

 見惚れていて、反応が遅れた。糸島が指さした方向を見ると、薄っぺらい一枚のCDがあった。

ああ。俺のバンドの……

 元、バンドの、と心の中で付け加える。そうだ、もう俺のバンドじゃないんだな。

「ああ。香鹿、バンドやってるって、言ってたもんな」

「うん、でも」

 もう、と言う前に、「それ、聴こうよ」と糸島が言った。俺が黙っていると、もう一度「聴こうよ」と、小さいけれどはっきりした声で言った。

 その中には、三曲だけ入っている。一番最近に録音したものだ。オーディションに送る曲はどれにしようと皆で話し合って、最終的に絞られた三曲を吹き込んで、また皆で聴いて、聴いていると「ここをもっとこうしたほうが」とか「ギターのソロをもっとあっさりさせたほうがいいかも」とかまた意見が出てきて、結局話がまとまらなくなる。でも、そういう時間が一番楽しかった。そんなふうに思う事自体、俺はプロに向いていなかったんだなと思う。

 オーディションとか大会とかは、いつも憂鬱だった。最初からそうだったわけではもちろんない。何度も不合格通知を貰うたび、どんどん、憂鬱が積もって行ったのだ。軽い埃みたいなそれが、最終的には身動きが取れないほど重く肩に圧し掛かった。ライブハウスでは盛況だった。ファンですと言ってくれる子が結構居た。それなのに不合格だったし、大小さまざまなレコード会社に送りつけたデモテープに、芳しい返事が返ってくる事はなかった。

 聴くのは最後にしよう、という気持ちで、コンポにCDを入れた。一曲目は、アツシが作詞も作曲もしたものだ。ロックだけど明るめのナンバーで、俺のギターソロが多めに取ってある。「俺たちのバンドらしい一曲」とケンゴが言った曲だ。二曲目は、ドラムとベースが強めのハードなナンバー。作曲は俺とアツシの半々くらいで、詞はケンゴが書いた。だから熱くて直球でちょっと恥ずかしい感じなのだけど、リョウタは「ライブハウスではこういうのがウケるよね」と言っていた。三曲目は、俺が作詞作曲を手掛けた、『K』だ。直球と言えば直球なのだけど、恋の歌というよりも、想い人の外見や雰囲気の特徴をただ歌い上げている。近づく事も離れる事もない歌で、ケンゴはこの曲を歌う時、いつもよりハスキーな声になる。「何度も聴きたくなる曲だ」と言ったのはアツシだ。アツシは俺の彼女と何度も食事をした事があって、よく知っていたので、その想い人が彼女でない事に気付いただろう。でも、何も言わなかった。

 はっきり言って、よくも悪くもない三曲だった。こうして、冷静になって聴いてみれば。一曲目は流行ものをくっつけたみたいな曲だったし、二曲目は昔の洋楽ロックのお決まりパターンみたいな曲だった。三曲目は、俺の独りよがりな気持ちをぶつけただけの、ちょっと重めの〝告白ソング〟だ。ケンゴの歌詞を恥ずかしいなんて言えた道理ではない。

 最後に若干のノイズが入って、きゅる、という音と共にCDが終わった。糸島は、ラグマットの上で三角座りの体勢で、静かにそれを聴いてくれていた。

「まあ、こんな感じ。あ、ちなみに俺はギターなんだけど、って言ってたっけ? スタジオで適当に録ったやつだから音悪かっただろー。自主制作で作った売り物のもあるけど、それ聴いて〝今のと変わんないじゃん〟ってなったらすげえカッコ悪いよな。というわけで、おしまい」

 ははは、と乾いた笑いを漏らす俺を、糸島はちょっと不思議そうに首を傾げて見ていた。

「映画見ようぜ映画。最近BSでやってたやつ、面白そうだったから録ったんだけどさ、まだ見てなくて

「俺、三曲目が好きだな」

 ぴたり、と空気が止まった。俺の動きも止まった。

「音楽は全然聴かないから、わかんないけど。俺は、三曲目が、好き」

 三曲目は、『K』だ。糸島薫の、『K』。

 まただ、と思う。さっき、コンビニの向かいの道路で糸島の手を強引に引いた時もっと遡れば、糸島の小さな手を初めて見た時に感じた電流のような熱い衝撃が、身体を駆け巡った。

 遣る瀬無さと無気力を覆い隠してしまうくらい熱い、マグマみたいなものが血管を通っていく。性欲に近いけれど、もっと狂暴なもの。この何ケ月間かに起こったすべての事を、全部ひっくるめてぐちゃぐちゃにして、糸島にぶつけてしまいたい。

 振り向いて、ラグマットの上に行儀よく座っている糸島の肩を強く押した。「っわ」と糸島が言い、彼が両掌で温めていたマグカップがごろんと転がった。まだ一口ほどしか飲んでいなかったらしく、牛乳で真っ白になった、元・紅茶、現・ミルクティーがラグマットを飛び出して、フローリングまで広がった。

 糸島の上に覆い被さって、自分でも獣みたいだと思う勢いでその唇を奪った。跨った体重で糸島の身体全体をラグマットの上に押さえつける。右手で糸島の顎を掴んで固定して、左手で右手首をきつく握った。自分と同じくらい身長のある、同い年の男だとは思えなかった。それくらい力がなかった。糸島は少しだけ抵抗したが、角度を変えてキスを繰り返すと、徐々に動かなくなった。時々息継ぎのように漏れる微かな息が唇にあたって、身体の一部が熱っぽく硬くなった。

 さんざん、好きなだけ、好き勝手にキスを繰り返して、我に返った。「あ」と言って身体を離すと、人形みたいに無抵抗になった糸島が、色のなくなった瞳で天井を見つめていた。

「いと、糸島、ごめん、俺、」

 身体中から血の気が引いた。何て事をしてしまったのだろうと思った。起き上がらない糸島を覗き込むと、瞳だけがわずかに動いた。ひどく、乾いていた。

「やっぱり、そういうことがしたかったのか」

 声も、乾いていた。え? と言うと、「いいよ、しても」という返事が返ってきた。

「俺、勃起しないけど。でも、べつに入れることは出来るよ。そういうことされるの初めてじゃないし、何も感じないから、いいよ」

……?

「変だと思ったんだ。友達になりたくて、俺なんかに近づくわけないもんな」

「違う。そんなつもりじゃ、」

 何が? と、糸島の瞳が言っている。何が違うんだよ? と。俺も、何が違うんだと自分に問いかける。

「いいよ」糸島はなおも言う。

「どうでも」

 

 

 電話をしようか、それともメールを送ろうか、と土日に何回思った事だろう。でも結局どちらも出来ぬまま、月曜日がやって来た。

 ネックウォーマーをしてダウンジャケットを着込み、のろのろしたスピードで原付を走らせる。糸島に合わせる顔がない。

 糸島が言った言葉を、頭の中で何度も反芻して、その意味を考えた。

 俺、勃起しないけど

 それは男にはって事だろうか(ふつうそうですよね、ほんとスミマセン)。それとも、病気か何かって事だろうか?

 そういうことされるの初めてじゃないし

 男の恋人が居たという事か? でも、じゃあどうして何も感じないなんて言ったんだろう。俺が言えた道理じゃないが、凄く傷ついた瞳をしていた。

 友達になりたくて、俺なんかに近づくわけないもんな

 ……そんな事、ないよ。俺なんかなんて、言うなよ。

 灰色の建物に近づくにつれ、見知った顔が増えてくる。同じ会社の人も居れば、違う会社の人も居るけれど、この時間にこのあたりを歩いている人はほぼ工場勤務の人だろう。おばさんが圧倒的に多いけど、若い女の子も居る。男は少ない。でも、とにかく人はたくさん居る。俺は、その中でどうして、糸島を好きになったんだろう。

「コジカちゃん、おはよう」

 原付を停めてヘルメットを外すと、駐輪場の出口の傍に風子さんが立っていた。キャメル色の短いダッフルコートを着て、寒さのために肩に力を入れている。

「あ、はよーございまーす。寒いっすね、今日も」

 ことさら明るい声で挨拶をする俺の顔を、風子さんの茶色い目が捉えた。その視線に、いつもと何か違うものを感じた。いつもはもっと、女の子みたいに、ふうわりしている風子さんが、大人らしく(というのもおかしな話だが)見えたのだ。

 それに考えてみれば、風子さんはもう自転車を停めて駐輪場から出ていける状態なのに、わざわざ俺を待っていた。

「あのね……

 風子さんは、綺麗に描いた眉を中央に寄せる。

「変な、噂があるの」

「変な噂?

「糸島くんが」

「糸島が?

 声が大きくなる。悪い癖だ、と思って自分の口を押えた。俺を見上げる風子さんのまつ毛が細かく震えている。

「糸島くんが、コジカちゃんを〝たぶらかしてる〟って」

……?

 ぱっくりと口を開けて、風子さんを見つめた。見つめると視線を逸らされて、にわかに不安が押し寄せた。

「糸島くんの噂、コジカちゃんはたぶん知らないだろうけどね、色々あるの。最初は、副社長が違う女の人に産ませたとかいう話だったけど、それが変わって、奥さんが、副社長じゃない人の子を産んだ、とか」

「そんな根も葉もない……

「それ以外にもね、和平工業に糸島くんと同じ中学だった子が居て、その子が言ってたんだけど……彼、ひどいイジメに遭ってたんですって。それが、〝母親が男にだらしない〟からっていう理由だったって、言ってて」

……それで?

 それで、そんな事が一体、糸島の何を左右するって言うんだ?

 俺の声に微かに混じった怒りに、風子さんがちょっと怯えたように顔を上げた。俺ははっとして、「あ、ごめんなさい。いや、何がほんとうかはわからないけど、親がどうとか、糸島には関係ない事だし、それで俺を〝たぶらかしてる〟っていうのはちょっと繋がらないから」と、苦笑いをしながら言った。

 風子さんもぎこちなく笑って、「噂好きのおばさんみたいで、みっともないよね」と言う。

「でも、コジカちゃんと糸島くんがほんとうに、純粋に仲がいいようだから、心配になって、言っておかなきゃって思って。……ほんとうの事じゃないと、思いたいんだけど、糸島くん、男の子に、暴力を受けたっていう噂があったらしいの、当時」

……暴力?

「その、女性がされるような事を、されたって……

 心臓が、どくどくと不穏に脈打つ。でも動いているのはそこだけで、手も足も頭の中も、恐ろしく冷えていた。口元を抑えると、自分の指先が震えているのがわかった。風子さんが「コジカちゃん」と小さな声で言ったけれど、俺は、すみません、とだけ言って彼女の前を去った。更衣室をくまなく見たが、糸島の姿はなかった。震える手で、モスグリーンの作業着に着替える。ジャンパーのファスナーが上手く引っかからなくて苛々しながら、泣きたくなる。

 ポケットに財布と携帯だけ入れて一階のロッカーに行くと、橋本さんや吉田さんが立ち話をしていた。皆が銘々手に塗るハンドクリームのにおいが、今日はやけに鼻につく。

「あら、コジカちゃんおはよう」と言ったのは、橋本さんだ。

「おはようございます」

 力なく、でも一応笑みらしきものを浮かべて俺は言う。

 ええっ、という一際大きい声が聞こえてきて、その方向を皆で見ると、ラインの責任者である田崎さんが困った顔をしていた。ええっという非難めいた声を出したのは、東原さんだ。

「ちょっと! またあの子連絡もなしに遅刻ですって!

 ボリュームのある身体をふんだんに使って歩いて来ながら、鼻息荒く言う。橋本さんが、「また〝ぼん〟?」と、呆れた口調で嘲るように言った。

「そうよ! 糸島のぼん、あの子ほんと、仕事をなんだと思ってるのかしら。相変わらず声は小さいし、仕事はとろいし、あ、ねえ、コジカちゃん、あんたねえ、同情する気持ちもわかるけど、あんなのと付き合っちゃダメよ。ああいうタイプはね、楽して生きられるように、あんたみたいなお人よしの前ではことさら弱いふりして、頼って来るんだから! 女でもないのになよなよしてて、ほんと気持ち悪いったらないわ」

 頭に血が上った。東原さんに掴みかかって、その巨体に跨って何度も頬をぶって、「糸島の事何も知らねえくせに!」と叫んで、つばの一つでも吐いて……という妄想をして、俺は結局、困った顔を作って笑った。

「でも確かに、妙に色っぽい感じするものねえあの子」

 吉田さんが言い、おばさんたちが口々に「そうねえ」とか「そうかしら」とか言って、「吉田さんはゴシップネタの収集に長けてるから、あたしたちも気をつけなきゃねえ」なんて言って笑った。そうして何事もなかったように、皆それぞれの持ち場に散らばって行く。何事もなかったように、糸島の事なんか、結局はどうでもいいのだというように。

 確かにと俺は思う。拳をぎゅっと握りしめ、下唇を噛む。

 確かに、無断で遅刻をするのはいけない事だ。糸島は血圧が低いと言っていたが、そういう人はざらに居て、でも皆頑張って仕事に来ているんだからせめて連絡くらいは入れなくてはいけない。東原さんは繁忙期は毎日のように残業をしてくれて、ノルマの数字もきちんと意識してクリアして、真面目に働いている。糸島が同じ組み立ての機械に入っても一時間に百ちょっとしか作れない部品を、彼女なら三百以上作れる。それでも糸島と彼女の時間給は同じだ。不公平だと、思っても仕方ない。糸島が、糸島副社長の息子だから、どうあってもクビになる事がないというのは、パートの人たちから見れば気に食わない事だろう。

 癖はあるけれど、皆いい人だ。風邪を引いたと言えばよく効くという薬をわざわざ家から持って来てくれる。生姜湯を作って来てくれた人も居る(生姜、苦手なんだけど)。橋本さんは、「若いんだから頑張りなさいよ」とバンドを応援してくれていたし、東原さんは、「コジカちゃんは優しすぎるからだめよ」とか言いながらも、「でもそれがあんたのいいとこだわね」といつも笑う。

 誰も、悪い人なんか居ないのに。皆それぞれに事情があって、皆上手くいく事ばかりじゃないけれど、でも、頑張ってるのに。

 それなのにどうして、上手くいかないんだろう。なんで俺は糸島に、あんな事しちゃったんだろう。なんでもっとふつうに、出来ないんだろう。

 俺は、糸島を悪く言うおばさんたちより、ずっとひどい。

 東原さんの言うとおり、糸島に同情したんだ。自分よりも弱いところのある糸島を護ってやる事で、自分の意味とか価値を見出したくて。

 糸島を、最初から自分より下に見ていた。かわいそうな糸島。俺だけが糸島の友達で、俺だけが糸島をわかってやれるそういう存在になりたかったのは、糸島が好きだからという気持ちよりも、自分の居場所がほしかったからだ。

 俺は、何をしても中途半端で、最低だ。

 

 

 また、変な噂を立てられるかもしれないな。

 そうなっても仕方ないくらい明らかに、俺は糸島を避けていた。避けるというか、傍目から見ればただ話さなくなったというだけだろう。

 今まで、呼ばれもしないのに飛んで行って仕事を手伝っていた。約束もしていないのに食堂では隣の席を陣取り、待たれてもいないのにいかにも「遅いぞー」みたいな顔をして更衣室の前で糸島を待ち構えて一緒に帰っていた。俺が動かなければ、避けるも何も、近づく事なんてないのだ。糸島が任されているのは部品の検品なので、機械をなおしに行く事も機械部品を補充に行く必要もなく、だから一言も言葉を交わさずに一日を過ごすのは容易だった。

 昼は、コンビニで買って来たパンやおにぎりを一階の休憩室で食べる。糸島が来る前まではそうしていた。休憩室は喫煙所代わりにもなっているので、吸っている人が居なくてもにおいがあちこちに染みついていて、食事をするには向いていない。だから女の人は滅多に来ない。

「あ、香鹿くんお疲れ」

「あ、お疲れ様です」

 食べ終えた菓子パンの袋をぐしゃぐしゃに丸めていると、田崎さんがちょっと遅めの昼食を取りにやって来た。隣いいかな? と俺に微笑みかけながら椅子に掛け、銀色の保冷バックのファスナーを開ける。

「田崎さんって、ご結婚されてましたっけ」

 弁当を作ってくれる人が居るという事は、そういう事だろうかと思って訊いた。

「いや、恥ずかしながら独身で親と同居。だから未だに母親の弁当です」

 ははは、と田崎さんが笑うので、俺もつられて笑った。ぱかっと開けた弁当は、男の子のために母親が一生懸命作ったという感じのボリュームのあるものだった。豚肉の生姜焼き、卵焼き、とうがらしと胡麻のきいたきんぴらごぼう。

「いいっすね。美味しそう」

「橋本さんたちには、はやく嫁さん見つけろって言われるけどね」

 やいやい言うおばさんたちの顔や口ぶりが容易に想像出来て、俺はまた笑う。

「でも、いいじゃないっすか。田崎さんの若さで責任者とか、凄いし、ご両親だって安心してらっしゃるでしょう。俺なんか、いつまでもふらふらしてるから……

 いかん、愚痴っぽくなってしまった。田崎さんを困らせてしまっただろうなと思って、「まあ、ほったらかしなんで、大して気にしてないかなって思いますけど」と顔を上げると、田崎さんは何だかにこにこしていた。

「〝田崎さんの若さで〟って、香鹿くんはそれより更に若いんだから。いいじゃない。ちょっとくらいふらふらしたって。それに、香鹿くんが一生懸命働いてくれて、波風立てないようにいつもにこにこしてくれて、俺は凄く助かってるよ。ご両親も、そういう性格だってわかってるから、何も言わないんだろう」

 いつもにこにこ、だなんて。ただ、へらへら笑っているだけなのに。

 黙り込んだ俺の心を見透かすように、「いつも笑っているって、意外と難しいものだよ」と言って、田崎さんは大きく口を開いてごはんをいっぱいに頬張った。

 

 

Q.最初はちっとも気にかけてくれなかった片思いの同僚が、少しずつ話をしてくれるようになりました。ある日、なんと電話をかけてきてくれたのです。これは、俺に気があると思ってもいいのでしょうか?

A.いい人だな、と感じているとは思いますが、ここで焦りを見せたりがっつくのは時期尚早です。まずは相手をよく理解し、自分自身をよく知ってもらう事が大切です。

 

 自分をよく知ってもらうなんて、無理だ。俺自身、俺の事なんかわからないのに。

 今日も糸島と一言も話をしなかった。明日は土曜日なので、ちょうど一週間という事になる。

 糸島は、恐いから人と話が出来ないのだと言っていた。俺はその時、糸島を護ってやりたいと思った。糸島が恐がっていたのはでも、攻撃される事よりも、憐れまれる事だったのかもしれない。対等だった関係に、何らかの事情により上下の差が出来るという事は少なくないと思うが、もともと対等でない関係を、平たいものにするのは物凄く難しい。優しくされる事のほうが、糸島にとっては恐かったのかな。今さら、そんなふうに思う。

 糸島の事が知りたい。もっと、知りたい。抱きしめたいキスしたいヤッちゃいたい。でも、何より話がしたい。

 トラブルのあった機械の点検をしていたら、皆よりも十分ほど退勤が遅くなった。更衣室に行くと真っ暗だったので、自分のロッカーの場所だけ電気をつけて素早く着替えた。鉄製の細い階段をがんがん音を立てて下りて行くと、少し先を歩いていた女の子が、その音に気付いて振り返った。

 あっ、という顔を女の子がして、俺も、あっ、という顔をした。ニットキャップを被っていたので一瞬わからなかったのだが、それは、金髪ギャルだった。広い食堂の隅っこの、長机の左から五番目に座っている女の子だ。

「あ、お疲れっす」

 俺は言う。名前を知らなくても、どこの会社かわからなくても、目が合えば挨拶をするのが工場流だ(たぶん)。

……お疲れ様でーす」

 金髪ギャルは答え、手に持っていた携帯電話にすぐ視線を戻した。俺はまた、がんがんと階段を下りる。狭い階段でぶつからないように身体をちょっと斜めにして金髪ギャルを追い抜かすと、「あの」と突然声をかけられた。

「はい?

 驚いて振り返ると、金髪ギャルが真面目な顔で俺を見ていた。しかし、目の周りが見事に真っ黒だぜ。

「あの、昼、なんで来ないんですか?

 俺の頭の周りにはハテナマークがびっしり浮かんでいたけれど、金髪ギャルはマイペースだった。最近の若者はコミュニケーションが取れないわけではなく、ただただマイペースなだけなのだろうか。ふつうはもっと、人の顔色を見るものだ。でも、そういうのってちょっと羨ましいな。

「あの人、待ってますよ」

「え?

「あの、静かな暗いお兄さん、いつも右側に本とか置いて、待ってますよ。この前〝ここ空いてますか?〟って訊かれた時、〝友達が来るんで〟って、超ちっちゃい声で断ってました。誰も来なかったけど。なんかちょっとかわいそうだから、気になって。それだけです。お疲れ様です」

 金髪ギャルは言うだけ言って、携帯電話にイヤフォンのプラグを差し込むと、それの反対側の先っぽを耳につっこんでそれ以上何も話さなかった。

 糸島、おい、見ず知らずの、たぶん年下のギャルにまで、お前、かわいそうって言われてるよ。

 糸島、お前をかわいそうにしてるのは、でも、俺なのか? 俺と、まわりなのか? どうやったら対等になれる? 俺は、お前と

 俺の数歩前を歩いていた金髪ギャルを追い抜かす時、「ありがとう!」と大声で叫んだ。金髪ギャルがちょっと鬱陶しそうに俺を睨んだ。声がでかくなるのは、俺の悪い癖だ。でも、糸島と話をするには、いい。

 俺が退勤のタイムカードを押したのが皆よりちょっと遅めの十分後、糸島が十分前にタイムカードを押したとしても、あいつは着替えるのに五分以上はかかる。俺が着替えるのは一分ちょっと。つまり、走れば追いつける。電車通勤の糸島が電車に乗る前に、追いつけるはずだ。

 全力疾走していると、何人かの顔見知りのパートさんとすれ違った。皆、俺の速さにぽかんとしていた。明日にはきっと噂が立つ。〝コジカちゃん全力疾走の真相〟の、よくわからない噂が。職場っていうのはそういうものだ。おばさんっていうのは、そういう人たちだ。でも、嫌いじゃない。

 糸島にも、それをわかってほしい。疎ましくても、諦めないでほしい。

 会社の正門を出て少し走ると、五メートルほど先にある踏切に、紺色のモッズコートの後ろ姿を発見した。ナイキのスニーカーをずるずると引き擦るようにして歩いている。

「糸島!

 俺が叫び、糸島が踏切を渡りきり、踏切の遮断機がけたたましい音と共に下りた。なんちゅうタイミング。

 糸島が、凄くゆっくり振り返った。無表情ではなかった。黒目がちな瞳が、濡れてゆらゆら揺れている。

「糸島っ、俺さ、」

 カンカンカンカンカンカンカンカン……

「俺、お前を」

 カンカンカンカンカン……

 遠くに見えていた電車が、轟音を立てて近づいて来る。糸島には、どれだけ叫んでも聞こえないかもしれない。堪えきれないとでもいうように、糸島が背を向けた。待って、と俺は叫ぶけれど、轟音と共にやって来た長い乗り物に道と視界を塞がれる。

 諦めたくない。たとえこの電車が通り過ぎたあとに糸島の姿がなくても、追いかければ間に合う。でもさっさと通り過ぎてくれ。

 永遠に続くように思われた長い乗り物が通り過ぎて行ったあとの俺の視界には、つやつやした黒髪の後ろ姿が、あった。嬉しくて、遮断機が上がりきるのを待たずに飛び出した。

「糸島」

 ぜえぜえと息でも切れていたら臨場感があるのだが、いかんせん踏み切り待ちというタイムラグがあったため必死さが伝わりにくい。

 俯いている糸島の前に回り込むと、俺は小さく息を吸って、吐いた。

「糸島、この間は、ほんとうにごめん」

……

「恐い思いさせて、気持ち悪い思いさせて、ほんとうにごめん。謝っても許してもらえないだろうなって思ったら、恐くて謝るのが遅れた。それも、ごめん」

「俺は、べつに、どうでも」

「どうでもよくねえよ!

 ああ、また大声が。糸島が驚いて、弾かれたように顔を上げた。濡れた瞳に溜まった水分が、今にも溢れ出しそうに見えた。

「正直に言う。俺はお前と、〝そういう事〟がしたい。でも、それは〝そういう事〟がしたいっていう気持ちが先にあるわけじゃなくて、お前が好きだっていう気持ちが先にあるから、そこのところ、勘違いしないでほしい。まず、それはオーケー?

 ぴっ、と人差し指を立てて糸島の鼻先に示すと、糸島は戸惑いながらも首を縦に振った。

「それから、俺はお前と友達になりたい。糸島塗装興業の息子の〝ぼん〟の糸島じゃなくて、糸島薫と友達になりたい。友達どまりじゃイヤなんだけど、とりあえず、まずは、お友達からお願いします」

 自分でも何を言っているのかよくわからなかった。糸島がじっと見つめてくるので、顔がだんだん熱くなる。

「糸島の事、知りたいんだ。話したくない事はもちろん訊かない。でも、話せばすっきりする事ってあると思う。そういうのが、友達だと思う。あ、でも、友達だから、変な事はしないから。指一本触れない。約束する」

……

「ああいう事したから、信じられないかもしれない。……イヤなら、断ってくれても、……イヤだけど」

 しりすぼみになって言うと、糸島が俺を見つめたまま、薄い唇の両端を持ち上げた。目をきゅうっと細めた拍子に、綺麗なしずくが落ちるかなと思ったが、それは落ちずに瞳を濡らすばかりだった。

「俺、香鹿と違って、出来ないことだらけで、だから、一緒に居るとイライラさせるかも」

「しない」

「面白くも、ないし」

「おもしれえよ」

「どこが?

 うっ、と答えに詰まった。糸島が眉を下げたので、「なんでもいいんだよ! 俺はお前が好きなんだから!」と答えた。そうしたら、糸島が、花が開くみたいに笑った。笑った傍から、ほろほろと、しずくがこぼれた。

 小さな手で小さな顔を覆って、糸島は声も上げずに泣いた。指一本触れないなんて言うんじゃなかった。キスはしませんと言うべきだった。好きな人が泣いているのに抱きしめる事も出来ない。俺って、ほんとに。

「ありがとう」

 風の音にまぎれるような、小さな声。どんなに小さくても、俺は聞き逃したりしない。

「香鹿、ありがとう」

 うん、とか、いや、とか俺は言った。手を出していると触ってしまいそうなので、ポケットに乱暴に手を突っ込んだ。そうしたら、入れていた携帯電話が短く震えた。糸島が鼻水を啜る微かな音を聞きながらメールを開くと、それは、ケンゴからのものだった。

『でも、俺は諦めないです』

 熱いねえ、相変わらず、と思った。しかも文脈なさすぎるし、とも。目頭がじんわりと熱くなって、俺も少しだけ泣いた。

 諦めない。流されるのは悪い事じゃないけれど、でも、諦める事だけはしない。

 

 

 糸島は相変わらず、仕事はとろいし愛想はない。だから、パートさんウケは頗る悪い。でも、おはようございますとお疲れ様ですを言うようになった。糸島はもともと可愛い顔をしているので、挨拶をされた橋本さんも東原さんもその他の皆さんも、悪い気はしないようだ。風子さんは、俺と目が合うと曖昧に笑う。何かを知られているような気がするが、とりあえずは気に留めない事にした。ふうわり微笑むその顔は、ちょっと一昔前のアイドルみたいで今日も可愛いらしい。

 バンドのメンバーたちとはまだ四人そろっては会っていないが、アツシの送別会も兼ねて、近々会おうと予定している。発案はきらきら菌をばらまくリョウタだ。集まる事になれば、ケンゴあたりが呑んだくれて暴れるだろうと予想はついているので、俺とアツシはほんの少しだけ気が重い。

 糸島は最近、俺のうちによく遊びに来る。金曜日、職場から直接うちにやって来て泊まって帰るか、土曜日の昼頃に来て、やっぱり泊まって帰る。言っておくが、指一本触れてはいない。時々、朝起きたばかりの時なんかは諸事情により危ないが、とりあえず、大丈夫だ。

 家族の話もイジメの話も、糸島はまだしてこない。もしかしたらするつもりはないかのかもしれない。それならそれで構わないと大人の男らしく納得したいところだが、気にはなっている。俺の事をどう思っているのかも、気にはなっている。でも、まあまた、追々ね。

「香鹿の名前ってさ」

 台所でインスタントラーメンを茹でながら糸島が言う。俺は隣で葱を刻んでいる。塩ラーメンには白ネギと白菜ともやし、あれば人参を入れて、最後の仕上げに柚子胡椒を入れて食べるとうまいのだ、と教えてやってから、糸島はそれにはまっている。柚子胡椒を入れすぎると「ぴりぴりする」と言う糸島は、ちょっとずつ、ちょっとずつ、調整しながら入れる。辛いのが好きな俺は、どばっと一気に入れる。

「ん? 名前が何?

「香鹿の名前って、優しい人って、書くんだよな」

 なんと答えるべきかわからなくて黙っていると、糸島がこちらを向いてちょっと笑った。白い歯が、ちらっと覗く。

「ぴったりだな。香鹿に」

 笑ったあと、少し恥ずかしそうにするので、意識が遠のきそうになった。

 

 

Q.出会った時はちっとも相手にしてくれなかった片思いの同僚と、努力の甲斐あって親しくなり、小さないさかいも経験し、更に親しくなって、毎週のように家に遊びに来てくれるようになりました。これは、ちょっと、そろそろ脈があると思っていいんでしょうか?

A.デリケートな問題です。時間をかけて、焦らず行きましょう。

 

 ……ですよね。

 土曜日、もしくは日曜日に帰って行く糸島を引き留めたいけれど、まだ焦らずに頑張っている。じゃあな、と手を振りながら、「また、月曜な!」と大声で言うと、糸島も「また、月曜に」と小さな声で言う。

 俺のバンドが解散しても、橋本さんの腰痛がひどくても、東原さんの化粧が濃くても、糸島が可愛くて我慢のぎりぎりでも、とりあえず世界大恐慌でも起らない限り、俺たちは職場で、また月曜日に会えるのだ。

 俺の職場である、糸島塗装興業株式会社で。

                                       〈fin.