青い夜が降ってきた。
驚いてゆっくり瞬きをしたら、男と言うには幼い感じのする青年が一人、夜を背負って立っていた。
目が合った瞬間にっこり微笑まれた。なにか面白いことでもあったのか? と訊ねたくなるような、目尻のとろんとたれた甘ったるい笑い方をする。
「八雲さん、傘、持ってこなかったんですか? 午後の降水確率九十パーセントだったのに」
夜にも似た青色は、青年のさしている傘の色だった。仕事を終えて会社からでたら雨が降っていたので、どうしたもんかと真っ暗な夜空を見上げていたところに、青年が現れたのだ。俺は曖昧に頷いた。名前を知られているということはたぶん知り合いなのだろうけど、思いだせなかったから。
「傘持ってないなら、駅まで入りませんか?」
面倒だな、と思ったのが顔にでたのかはわからない。しかしなにも答えずにいると、青年は綺麗に整えた太めの眉を八の字にして、
「もしかして、俺が誰だかわかってない感じですか?」
と言った。数秒考えてから正直に頷いたら、
「昨日異動してきた、和泉東五です。昨日も今日も、八雲さんの隣のデスクに座ってるんだけどなあ」
と、文句とひとりごとの中間みたいな口調で言った。甘えた喋り方だ。
「平和の和に、湧く泉で和泉。東五は、東に数字の五です」
まるで宙に紙でもあるかのように、青年は人さし指をすいすいと動かしながらそう説明した。だからなんだ? と思いながらぼんやりその姿を見ていたら、東五の「五」の字を書き終えた青年がくるりとこちらを振り向いて笑った。目が合うと笑うのは癖らしい。真夏の清涼飲料水のコマーシャルみたいにはにかむと、作り物のような白く小さな歯が見えた。
「帰りましょう」
甘ったるい笑い方で甘えた喋り方で、おまけに声も甘い。
さしだされた青色の傘に、一体なぜ入ったのか、自分でもよくわからない。
そうして恋が始まった? まさか。そんなもの始まったりはしない。
始まるものは終わる。それが面倒だし億劫だから、俺はなにも始めたりはしない。
和泉東五とは、彼が異動してきたその日からデスクを並べて仕事をしている。
――平和の和に、湧く泉で和泉。東五は、東に数字の五です――驚いたことに、その自己紹介を聞いてから早くも二年が経つ。
新人としては異例の速さでCM企画チームにやってきただけあって、東五ははじめから仕事のできるやつだった。多少浮き沈みはあるが、熱意と冷静さのバランスがいい。個人的に、熱意が良質な結果を生むとは思わない。いい結果は、起こりうる限りの悪い結果を想像し、それに結びつく可能性のあるものを把握して対処することによって生まれる。それに、浮き沈みがあることを自覚しているなら問題はない。二年という数字に少し驚いてしまうのは、だから仕事とはあまり関係がない。
「奏太、お前、東五とケンカでもしたのか?」
【忘年会アンケート】希望日にマルをしてください。年末は混むので早めに行う予定です。――という紙をさしだしながら、書いてある内容とまったくそぐわない真剣な表情で時田さんが言った。忘年会のアンケートなんて上司が部下のデスクまでわざわざ持ってくるものではないし、そもそもプリントアウトしなくてもメールで一斉送信すればいいのに。無駄なことをするものだ。
「してませんよ」
希望日なし、の文字にマルをつける。不参加という選択肢が設けられていないことに引っ掛かりを覚えていたのも、社会人三年目までだ。これも仕事の一環と思えるようになってきた。歳を取ったということだろう。
「でもぎくしゃくしてるだろ?」
「してますか?」
「東五はしてるよ。先輩なんだから、お前から動いてやれよ。心あたりなくてもさ」
「……」
叱るとも宥めるとも違う、困った顔をした時田さんの言葉に黙ったのは、心あたりがないわけではなかったからだ。ディスプレイの端にべたべたとポストイットが貼りつけてある隣の席のパソコンを横目に見ながら、本来ならばそこに座っている人間の顔を思い浮かべた。
東五はひとたび仕事を離れると、しぐさや表情が妙に幼くなる。出会ったときより緊張が解けてきたぶん、それは日増しに強く感じられるようになった。そのせいで、時間の流れがよくわからなくなるのだ。二年も経ったなんてほんとうなのだろうか。遡った、の間違いではなく?
べつに誰かと仲よくするために会社にきているわけではないから、仕事に関係のない会話は少なければ少ないほうがいい。と、常々思っているにもかかわらず、東五とは無駄な話をよくしている気がする。傍目には、「和泉は八雲さんに懐いている」ように見えるらしい。
しかし、その東五と四日間ほど会話らしい会話をしていない。今日が木曜だから、土日も入れると六日間だ。もともと俺から話しかけることはほとんどないのだから、東五のほうが意識的に会話を避けているということだ。もちろん仕事に必要なことは話すので、業務に支障はない。俺としてはこのままでも構わない。
「飲みにでも誘ってやれ。東五が悄気てると、部屋の空気もどんよりするだろ」
だけど、人の好さが取り柄みたいな上司が目の前で困った顔をしていては、「はあ」と返事をするしかないのだった。なまじ心あたりがあるだけに。
*
それは、普段より仕事を早めに切り上げた夜の出来事だった。六日前、先週の金曜日だ。
駅までの道。女性たちのヒールがコンクリートを打つ音に雑ざって、時折吹くつめたい風の音が耳元を掠める。ぐんと気温の下がった十二月の頭。
「ええっ」
半歩前を歩く女がずいぶんと大きな声をだした。
「ないない! それはないよ!」
室内じゃなくてよかった、と思いながら夜空を見上げた。声は、上へ上へと伸びていくビルの先端とともに暗闇に吸いこまれて消えていく。オフィス街の夜というのは奇妙に静かだ。蜂の巣みたいにこまごましたガラス窓にはぽつぽつとあかりが灯っていて、だからそこには電気をつけて作業をしている人がいるのだろうけど、こうしてビルの外にでてしまえば驚くほど静かでひと気がない。
「ないですかね? やっぱり、これはそういう意味なんですかね?」
答えた女の声は、対照的にひどく小さかった。大声の女に気圧されたのかもしれない。二人とも同じ会社の同じフロアの違うチームで働いている女性たちで、偶然――というのは大声の女の言葉だ。「あっ 八雲くんぐうぜーん!」でかい声――、帰宅時間が重なったのだ。
「ないよー。誕生日にブランドもののプレゼントくれるなんて、友達同士じゃふつう有り得ない。それはほぼ、付き合おうって意味よ。ね、和泉くんそうだよね! 男子代表!」
「えっ」
大声の女が突然振り返り、大人しく俺の隣を歩いていた東五は小さく叫んだ。驚いたときに素早く瞬きを繰り返すのは東五の癖で、長いまつ毛が慌ただしく上下するさまは、ねじを回したらそういう動きをするブリキ人形のようだ。
「えっ、じゃないわよ。あ、でも和泉くんは色男だから、気のない女の子にでも誕生日プレゼントあげたりしちゃう?」
「なんですか、それ」
「えー?」「とぼけてるー」と女性二人が声を上げると、東五は「えーって言われてもな」と困った顔で言い、首を縮めるようにしてマフラーに顔を埋めた。大声の女はにやにや笑っている。彼女が〝偶然〟声をかけてくるのは決まって東五と二人で歩いているときだが、それも偶然だろうか。確率を求められるほどのデータは揃っていない。
「モテそうなのに女の影がまったく見えなくてすっごくミステリアスって皆うわさしてるよ。実は結構遊んでるんでしょう」
「そんな」と、東五は言う。「遊んでませんよ」
目を細め、笑って答えているけれど、それは俗に外面と呼ばれる部類の笑顔だった。東五は慣れない相手の前で笑うとき、わざと隙を見せるような笑顔を作る。とても自然に。
ちゃっかりした笑顔、とか、困った笑顔、とか。状況に応じてスッとでてくるそれらが自然すぎて不自然なので、気になって訊ねてみたことがある。どうしてわざとお道化るんだ、と。他意はなかったし、それをいいことだとも悪いことだとも思っていなかった。不思議だったから訊いたのだ。東五は物凄くびっくりしたらしく、口を開けてぽかんとしていた。出会ってまだ数ヶ月の頃だ。
――俺の笑顔っておかしいですか? わざとらしく見えるかな。
――爆笑するほどおかしくはない。太宰治でも尊敬してるのかなと思っただけだよ。
そう答えたら、「……ダザイ……?」と東五は眉間に皺を寄せてつぶやいた。怪訝な顔はちょっと面白かったので口の端を上げると、また物凄くびっくりした顔になった。曰く、「八雲さんが笑ってるのはじめて見ました」だそうだ。そのあたりから、徐々に幼くなっていった気がする。懐かれていると感じはじめたのもそのあたりだ。
「えー? ほんとかなあ。ねえ、じゃあさ、八雲くんはどう?」
隣に並んだ大声の女から、デパートの一階のかおりがした。買ったばかりのコートについたら嫌だな、と思いながら距離を置き、
「なにが」
と訊ねた。
「もう、聞いてなかったの? 後輩がね、男友達から誕生日プレゼントを貰ったんだけど、それが結構値の張るものでさ。ふつう、ただの友達の誕生日にブランドものプレゼントしたりしないよねえ? 八雲くんならあげる?」
後輩だという小声の女が、大声の女の隣で恥ずかしそうに顔を伏せていた。目が合うと気弱な微笑みを向けられたが、あいにく俺は東五と違って目が合ったときに笑う習慣はないのでとくに反応しなかった。
「可愛い子にしかあげない」
そう答えたら、「やっぱりそうよね」と大声の女が嬉しそうに手を打った。同じタイミングで東五が発した、「え」という戸惑いの声は、女性たちには聞こえなかったようだ。
東五はまたまつ毛をぱたぱたさせてこちらを見ている。顔を埋めていたせいで少しくずれてしまったマフラーを指でなおしてやる。すると大声の女がぴたっと立ち止まり、
「ねえ、和泉くんと八雲くんってすごく仲がいいのね」
と、拗ねたような、少しつめたい口調で言った。東五はなぜか慌てたようすで、「いえ」とか「べつに」とか言ったけれど、口元をまごつかせるだけで、それは言葉らしい言葉にはならなかった。
濃いグレーのルイ・ヴィトンのマフラーは、先々月にあった東五の誕生日に俺が贈ったものだ。
贈り物なんて可愛い子にしかしない。けれど、俺とその男友達の感覚が必ずしも同じだとは限らないし、たとえ同じであったとしても、可愛い=付き合いたい、なのか、可愛い=セックスしたい、なのかは本人に確認しなければわからない(確認する必要があるならば)。
目は合っていたが、東五は珍しく笑わなかった。あきらかに戸惑っていたし、大声の女の視線を気にしてもいた。じっと見つめたら不器用な中学生みたいに俯き、それから駅につくまでほとんど喋らなかった。
*
帰宅後はまずシャワーを浴びる。お前から動いてやれ、と時田さんに言われたことなどすっかり忘れて帰ってきてしまった――と、蛇口を捻った瞬間に気がついた。
あの日は、伊勢丹で新しい靴を買ったのだ。九月の後半になるとどこの店にもセール品がなくなってすっきりするので、買い物が楽しい。食器屋と家具屋をひやかしたあと、レコード屋で探していたレコードを一枚と、探していたわけではないが気に入ったレコードを二枚買い、地下にあるカフェ――夜はバーになる。すごく広い店で、いついっても騒がしいが、騒がしいほうが個々の会話が聞こえてこないのでいい――で遅い昼食を食べた。ヴィトンを覗いたのは通り道にあったからだし、マフラーを買ったのは単純にそれが温かそうだったからだ。単純に東五が可愛いから贈った。誕生日には少し早かったけれど。
冷蔵庫から取りだしたガス入りの水を一口飲み、サラミとかチーズとか、塩気のあるものをキッチンで立ったまま口に入れる。それからもう二口ほど水を飲めば、それだけで腹は膨れてしまう。歩くたび床に水滴が落ちるが、一人暮らしなので俺さえ滑らなければほかに滑る人間はいない。濡れた身体のまま革のソファに座る。パソコンを立ち上げて、仕事をしたりインターネットオークションを見たりする。眩しいのが苦手なので電気はつけない。パソコンの画面だけで十分に明るいし、暗くて困る人間はやはり誰もいない。自由だと思うのはこういうときだ。自分にとって不要なものを排除したら、無駄なものだけが残ったというのは、なかなか興味深いことだと思う。レコードとか、置物とか、おもちゃとか。
部屋は秩序を持って散らかっている。夜は長い。俺はぶらぶらと自由に、真っ暗な時間を過ごす。
『件名:私信
本文:可愛いってどういう意味ですか? 和泉東五』
金曜日の朝、職場のパソコンを開いたら隣の席の東五からメールが届いていた。時田さん曰く〝ぎくしゃく〟しだしてからちょうど一週間になる。東五はこちらを見ないように、真面目な――どうやら緊張しているらしい顔で資料を作成していた。面白いのでメールで返した。
『件名:Re:私信
本文:そのままの意味です。俺の実家はラブラドール・レトリバーを飼っています。名前はヒューゴです(嘘のようなほんとうの話です) 八雲奏太』
午前中から会議が入っていた。時田さんに「今日の会議はジャケット着用」と釘を刺されたので、仕方なくジャケットを着て出席した。あまり実のある会議ではなかった。向かいに、大声の女が座っていた。なぜかじとっと睨まれたが、気付かないふりをした。
デスクに戻ると隣の席に東五はいなかったけれど、メールの返信はあった。
『件名:Re:Re:私信
本文:ちょっと意味がよくわかりません。できれば凡人にもわかるようにご説明ください。 和泉東五』
『件名:Re:Re:Re:私信
本文:トーゴはヒューゴのように可愛いという意味です。ヒューゴにはまだルイ・ヴィトンの価値がわからないだろうと思ったので、人間のトーゴにあげました。迷惑なら返してください。 八雲奏太』
メールを送った直後に内線が入り、映像制作部に呼びだされたのでふたたび席を立った。三十分ほどして戻ると隣の席の東五も戻ってきていて、黙っているとつめたく見えるほど整った横顔でキーボードを叩いていた。
『件名:Re:Re:Re:Re:私信
本文:迷惑ではないです。すごく気に入っています。ヒューゴのかわりでもありがたいです。 和泉東五』
犬のかわりにしないでください、と言われるのを期待していたかどうか、自分に問いかけてみる。
「可愛いってどういう意味ですか?」の問いかけに、どうして「単純に」可愛いという意味だと言えなかったのだろう。マフラーを買うとき、犬のことなんか思いださなかったと断言できるのに、俺はそれを隠した。
画面を見ながら考えていたら、きゅるっ、と椅子が回転する音が聞こえた。音につられて振り向くと、東五が情けない顔で俺を見ていた。八の字形のまゆ毛。大きな瞳。きちんと締めたネクタイもシャツもスーツも色々なブランドが雑ざっている。中でもとくにヴィトンが好きだというのは、普段の持ちものを見ていればわかる。見ていれば?
「……俺、なよなよしてます?」
ナヨナヨ、という耳慣れない言葉に一瞬黙った。
「情けないってこと?」
訊ねると、東五は少し首を傾けながら、「うーん」と唸る。また、幼いしぐさ。しばらく唸っていた東五は自分のパソコンに向きなおると、素早くキーボードを打った。右手の人さし指がマウスを軽く押すと、数秒で俺のパソコンに新着メールの知らせが届いた。
『件名:Re:Re:Re:Re:Re:私信
本文:女っぽいとか、気持ち悪いとか、感じたことありますか? 俺、八雲さんにべたべたしちゃうから。いつも。 和泉東五』
『件名:Re:Re:Re:Re:Re:Re:私信
本文:ありません。犬はべたべたするものです。気にする犬などいません。 八雲奏太』
手紙のマークをクリックする。数秒後に、きゅるっ、と、ふたたび椅子が回転する音。さっきよりも更に情けない顔をした、それこそナヨナヨした――それがどういう状態を表すのか、実際のところよく知らないのだけれど――東五が俺を見ていた。あまりにもはっきり犬と書いたから気を悪くしたのだろうか、と思って見つめていると、
「……わん」
と、小さな声で東五が言った。
俺は飼い主らしく、ふわふわの茶色い毛を撫でてやった。
金曜の夜のファミリーレストランは、どのテーブルもあまりファミリーっぽくない面々で埋まっていた。黄色とオレンジ色で統一された店内は白々しく明るい。適度な油のにおいと、聴いたそばから忘れてしまうBGMと人々の話声が雑ざっていて、不思議な静けさがあった。
隣の隣のテーブルでは三十代くらいの大人しそうな男が身体を揺らしながら懸命に消しゴムをかけていた。漫画でも描いているのかもしれない(ときどきそういう人を見かける。ファミリーレストランは面白い場所だ)。暇なのでちらっとそちらを見ると、男もちらっとこちらを見る。俺の向かいに視線を移し、眼鏡の奥の瞳を細めて同情を含んだ優しいまなざしでもう一度俺を見る。俺は男に向かって肩を竦めてから視線を外し、テーブルに突っ伏して眠っている東五のつむじを見つめる。眠りだして、かれこれ十五分は経つだろうか。
食事に誘ったのは俺だ。バーや居酒屋にしなかったのは俺自身さほど酒が好きではないことと、東五もあまり強くないほうだと記憶していたからだった。しかしなにを思ったのか東五は初っ端に生ビールを頼み、空腹であろう胃にそれを流しこんだ。眉間に皺を寄せて苦いものを飲みこむ顔を見ていたら、なぜか少しだけ切なくなった。もういいよ、と言ってやりたくなった。
「××さんにぃ、告白されましてぇ」
××さん、というのは大声の女のことだ。
二杯目のジョッキをテーブルに置いたとき、案の定東五はすっかり酔っぱらっていた。注文したマカロニグラタンのマカロニを、フォークの先に一つ一つ通しながら話しだす。食べ物で遊んじゃいけません、と言おうかと思ったが、一つ一つ通したそれを東五はきちんと食べた。難しい顔で咀嚼して飲みこみ、また一つ一つ通していく。ホワイトソースばかりがグラタン皿に残る。マカロニなしのグラタンが完成するのもそう遠くはないなと思った。
「ああ。はいはい」
ポテトを口に入れて頷く。俺は、コーラとカルピスを割って作ったキューピットを飲んでいた。「茶色くて気持ち悪いです」という理由で東五には不評だ。ファミリーレストランのドリンクバーで作るキューピットは、確かにちょっと色が悪い。
「断ったんれすけど、」
「うん」
「そしたら、……八雲さんと、できてんじゃないのーって、言われまして」
「へえ」
「もちろん、××さんは、冗談で言ったんだと思います。だけど俺、懐くと、べたべたしちゃう癖、あるから」
「うん」
「もし、変な誤解されて、八雲さんに、迷惑、かけたら、」
「うん」
「かけたら、駄目だから、」
「……」
「俺、八雲さん、好きだから」
「……うん」
そんな言葉を残して、東五はすっかり眠ってしまった。頬を赤くして、長いまつ毛を伏せて。うすく開いた唇から、ささやかで間抜けな「ぷすー……」という寝息が漏れている。
グラタンのマカロニはなくなっていた。ぐちゃぐちゃのホワイトソース。見ているだけで胸やけがする。胸やけ? うん、たぶんこれは。
このままここで朝を迎えてもいいかな、なんて思った。ファミリーレストランは二十四時間営業だし、明日は土曜日で、出勤の義務はない。東五が目覚めたらドリンクバーで熱いコーヒーを入れて飲み、一体俺の話のどこが嘘でどこがほんとうなのか、あててみなって言ってみようか。犬を飼っているって話、ほんとうだと思うか? って。
わかりませんよお、と東五は言うだろう。結構早い段階で。そうしたら、モーニングセットのホットケーキを注文しよう。それに、はちみつをたっぷりかけて食べる。糖分を取れば頭の回転もよくなるかも。
甘いもの、苦手じゃなかったんですか? と東五は言うかもしれない。俺は両肩を持ち上げて首を横に振る。さあ、どうかな、とでも言うように。
そんなふうにしているうちに、きっとまた夜が訪れる。青い夜。東五がそれを連れてくる。そうして言うのだ。
――帰りましょう――
そこから、なにかが始まる?
まさか。
始めたりしないさ。
終わりたくないからね。
*fin*