ようするには訓練なのだ。
子供の頃は嫌いだった野菜だって、鼻をつまんで食べたり目をつぶって食べたりすれば、いつの間にか食べられるようになっていた。結局のところ好きではないにしても。
それと同じことだと思う。
女性の身体に魅力を感じなくても、目をつぶったり違うことを考えたりすれば、魅力的とまではいかなくても身体は慣れて対応できるようになる。
もっとも、そういう行為のあとは結局いつも悲しくなる。訓練してみても、やっぱり感情の端っこまでは上手くコントロールできない。だからここ何年も女性とセックスはしていない。
嫌いなものを食べたあと、それを無理矢理流し込むために水をぐぶっと飲むみたいに、一生懸命シャワーを浴びている俺を彼女たちは知らないだろう。
マイノリティという言葉を知ったのはいつだろう。
女の子に触れたときだったのか、男に触れられたときだったのか。いずれにせよ、誰にも言わずに生きていくしかないと思ったのが中学三年の夏だったのは覚えている。
ひどく暑い日に
ひどく孤独で
泣くこともわめくこともせず、ただ諦めた。
「東五」
オフィスの廊下で呼び止められて振り返った。首から下げた名札が、ぱた、と風になびく。そこには三年と少し前の、いまよりもいくぶん若い自分の顔写真と、和泉東五(いずみとうご)という名前が印刷されたカードが入っている。
広告代理店でのCM企画の仕事に就いてもうすぐ三年になる。
まだまだ下っ端ではあるけれど、企画の最前に関わるチームに加わることもできて、その中に後輩と呼べる人間もいて、仕事はどんどん楽しくなってきていた。
初めの頃は自分の企画を通したいとか、思い描く通りに完成させたいという気持ちが強く、依頼主や制作側と意見を擦り合わせるのに苦労もした。でもいまは三年前よりもほんの少し狡くなり、賢くなり、いい意味で自分に甘くなれる部分もでてきた。とにかく面白く、眠っている時間以外は仕事のことを考える日々だ。だからもちろん、恋人らしい恋人はいまのところいない。
「はい」
振り返った先には、節電中のほの暗いねずみ色の廊下が広がっていた。そこにチーム長である時田リーダーが嬉しそうに立っている。彼の周りだけぱあっと明るくなりそうな、なんワットですか? と思わず問いかけたくなる笑顔だ。
初めて会ったときは年を聞いてびっくりしたけど、いまもやっぱり、こんな風ににこにこと笑っている顔を見ると年齢とのギャップに驚く。ただ、仕事が大詰めになってくると一番先に疲労が肌にでるところなんかは、やっぱ俺よりジジイなんだな、と思う。
「お前の案、やっぱ採用になったよ。クライアントさんも気に入ってくれたし」
さあこれから更に忙しくなるぞ、と、満面の笑みを浮かべながら時田リーダーが俺の背中を叩いた。時田リーダーはスキンシップの多い人で、女子社員の肩なんかも平気で叩く。男子社員に関して言えば、朝の挨拶代りに尻を思いっきり叩かれたりもする。そういうことがあまりに多いので、このチームに入って一ヶ月ほどは「リーダー、もしかしてお仲間なんじゃ……」などと思ったものだ。でもいまとなっては、時田リーダーからは悲しいかなそっちの雰囲気は微塵も感じない。感じたところでタイプじゃないんだけど。
「マジっすか、やった」
小さくガッツポーズをすると、時田リーダーもまた更に嬉しそうに笑った。笑うと片頬にえくぼがくっきりと浮かぶ。首から下げた会社用の携帯電話で時刻を確認すると、「昼メシどうする?」と俺を見た。
「せっかくだし、社食じゃなくて外いこうぜ。先輩がおごってやろうじゃないか」
「牛丼とか言うのナシにしてくださいよ」
にやにやしながら言うと、「そんなわけあるか」と、ひざの裏にキックを一発お見舞いされた。
「いて」と俺は言ったが、実際はもちろんまったく痛くなくて、ただただ時田リーダーの笑顔が嬉しかった。
時田リーダーが連れてきてくれた洋食屋は、会社から歩いて十分ほどの場所にあった。
こんなに近いのに存在すら知らなかった。昼食は大抵デスクに座ったまま菓子パンやインスタントラーメンで済ましてしまうし、ましな日でも社員食堂にいって定食を十分でかきこむ生活だ。恋人がいるときはお洒落な店を探したりもしたけれど。
車は入れないであろう細い路地をくねくねと曲がっていくと、その店はあった。最近はコーヒーを飲んだり軽食を食べたりするところをカフェと呼び、そこは若い女の子たちでいつでも賑わっているイメージだが、目の前に現れた洋食屋は、カフェよりも〝喫茶店〟という表現のほうがしっくりくるように思われた。
赤いレンガの外観に、緑や、かつては緑だっただろう茶色の葉の蔦が這っている。木製のドアの上には赤い小さな庇がついていた。看板らしい看板はなく、ドアのガラスに内側から名前が入れてあるだけで、入るために近づいた人間でなければここが何屋なのかわからないくらい静かな佇まいだった。
〝TRATTORIA ROSSO〟
なるほど、イタリア料理屋なんだな、と、流れるように書かれているささやかな文字を見て思った。
「すっげえ美味い店なんだけど、知らないやつが多いんだよなあ。シックとかシンプルって言えば聞こえはいいけど自己主張が足りないと思わないか?」
「ま、そうっすね」
その店の落ち着いた佇まいは確かに雰囲気があったが、静かすぎるというのは飲食店としては敬遠される要因にもなりかねない。
仕事柄なのか、「せめて店の前にメニューボードだすとかすればもっと……」などと、時田リーダーは一人ぼやきながら、木製のドアを押した。なんの気なしに見上げると、ドアの上には小さなベルがついていた。どこまでも古めかしい印象の店だ。
「あ、こんにちは」
店のカウンターの中に立っていた男は、カラン、というベルの音に顔を上げ、時田リーダーの姿を確認すると首を心もち斜めにしてにっこりと笑った。
いらっしゃいませよりも先に「こんにちは」がでるということは、足繁く通っているのだろう。時田リーダーも、その「にっこり」につられるようににっこりした。俺もつられて、中途半端に口の端を上げた。「にっこり」の「にっ」くらいの笑い方になった。笑うよりも、カウンターの中の人物に興味を惹かれたのだ。ずいぶんと可愛らしいウェイターだった。
黒い髪に黒い瞳、肌理の細かい白い肌に、ぽってりと赤い唇。白いシャツの胸元に蝶ネクタイでもつけようもんなら七五三だ。
(タイプではないけど、可愛いな)
案内された二人掛けの席に腰を下ろしながら、そんなふうに考える自分に少しうんざりする。タイプかどうかを咄嗟に判断するなんて、諦めが悪いというか懲りないというか。
すぐにタイプだなとか可愛いなとか思ってしまういいかげんな俺だけれど、実を言うと恋愛なんてもうずいぶんしていない。対象が同性だから出会いがないとか、恋愛よりも仕事が楽しいとか、理由は細々とある。
会社の給湯室で、女の子たちが「なんかそういう〝モード〟じゃないんだよねー」と言っているのを図らずも立ち聞きして、「わかるわかるー」と周りの女の子同様に頷いてみたりする。恋愛モードじゃない。わかるわかる。そうしてそのあとに「でも子供産むこととか考えるとさーそろそろ考えなきゃとか思うよねー」という話には、周りの女の子同様に「わかるわかるー」とはならない。俺には一生関係ない。子供はもちろん、結婚も、そのような間柄になる相手も。俺には。
「今日はお二人なんですね」
テーブルに水を置いて、ウェイターはまた大きな目を細めて笑った。
「会社の後輩なんです。期待のホープ」
ウェイターのほうを見ながら、俺を指さして時田リーダーが言う。やめてくださいよーと笑い、
「和泉東五といいます」
よろしくお願いします、と軽く頭を下げた。
「へえ、すごいな。時田さんがそんなふうに言うなんて」感心したように、ウェイターは軽く首を縦に動かした。「美木(みき)と申します。こちらこそ、これからよろしくお願いします」
ふつうならなんとなく嫌味に聞こえそうなせりふも、大きく見開かれた丸い瞳とそのあとの笑顔を見ると、ほんとうに感心しているように見えた。美木さん、と呼ぶべきか、美木くん、と呼ぶべきか迷うところだ(呼ぶ必要はないだろうというツッコミは、ナシで)。
幼く見えたけれど、声も話し方も落ち着いていた。もしかしたら年上なのかもしれない。そうなると、呼ぶなら美木さんだな。
時田リーダーが二人分のランチを注文して、美木さんが「かしこまりました」と厨房に入っていったあと、
「なんか可愛らしい感じの人っすね」
俺は時田リーダーに顔を寄せて小声で言った。小声でなければ聞こえてしまうかもしれないくらい、店は小さかった。
「ああ、尊(たける)? そうだろ、経営者には見えないよな。って言っても、コックを一人雇ってるだけみたいだけど」
「すごいっすねえ」と俺は店を見渡しながら言った。経営者だという美木さんもすごいし、なぜか下の名前を知っている時田リーダーの守備範囲の広さもすごい。
カウンターの中に置いてあるワインボトルやグラス、食器棚の中のティーカップの類、壁に飾ってある絵はそれぞれ趣味がよく、それでいて気取った雰囲気がないところがよかった。旅行でいったヨーロッパの小さなレストランを思いだす。
チームの一番下っ端社員のドジ話や、これから取り組むCMについて話をしていると、前菜のサラダとブルスケッタに続き、メインのパスタが運ばれてきた。今日のランチは、ミートソースのパスタだった。
「美味そう」と俺が小声でつぶやくと、ウェイター……ではなく、マスターと言うべきか、とにかく美木さんが、ふふふと笑った。
「うちのシェフ、パスタが得意なんですよ。ゆっくり味わってくださいね」
「そうなんですか。楽しみだな、ありがとうございます」
目を合わせると、少しだけ恥ずかしそうに歯を見せて美木さんが微笑む。タイプじゃなくても、ちょっといいなと思うくらい、超可愛い。
「男二人でくるにはもったいない店だろ?」
自分から誘っておいて、時田リーダーはそんなことを言う。
—俺なら、女の子じゃなくて男ときますけど—
などとはもちろん言わず、「そうっすねえ」と頷きながらパスタを口に運んだ。確かにこの雰囲気は、カップル—それも、若いカップルではなく、四、五十代のカップルにしっくりきそうだ。そして、五つ年上の同性の上司とくるには、やっぱりちょっともったいない。
「わ、超美味い!」
どうでもいいことをごちゃごちゃ考えながら口に入れたパスタは、その考えが一気に吹き飛ぶ美味さだった。
「だろ?」と、時田リーダーが身を乗りだすようにして嬉しそうに俺を見る。俺も、大きく頷いた。
「いままで食べた料理の中で一番美味い」
「だろだろ! 美味いんだよ、ボリュームもあるしさ」
ひとしきり盛り上がる俺たちの声に、カウンターの中でグラスを拭いていた美木さんが笑うのが見えた。決して嫌な感じの笑い方ではなかったが、それは「褒められて嬉しい」というよりも「当然の反応だ」という自信に満ちていた。きっとこの店にきた大抵の客が、いまの俺たちのような会話をするのだろう。
「なあ、尊。忙しくないならさ、宝(たから)、呼んでくれないか?」
ふと思いだしたように皿から顔を上げ、時田リーダーが言う。
「わかりました、ちょっと待ってくださいね」
そう言って美木さんが厨房に消えていった。
「タカラ? 誰ですか、それ」
「ここのコック。この間きたときは忙しそうで顔見られなかったから、挨拶でもと思ってさ」
コックというからには、熊みたいな恰幅のいい男だろうか。
「ふうん」
あまり興味が湧かないなと思いながら、久々に美味いと感じる食事に集中していた。ひき肉がごろごろと入っているのも、上にかかった粉チーズがほのかに香るだけなのもいい。熊みたいなむさくるしいコックでも、こんなに美味いものを毎日作ってくれたらちょっと好きになるかもしれないなあ。でもやっぱり、むさくるしいのは嫌だなあ。と、結局そんなことを考える。
「—あ、時田さん、お久しぶりっす」
厨房の扉を開けてでてきた男を見て、俺は口を動かすのをやめた。
大男でもなければ熊でもなかった。もちろんむさくるしくもない。
骨ばった感じの顔立ちではあったが、ごつごつした印象はまったくなかった。スポーツマンの高校生が、そのまま大人になったような無防備さがあった。
無駄のない顔立ちだ。こげ茶の髪の両サイドは短く刈ってあり、少年のような首筋に目がいった。
寒くもないのに背筋がぶるっと震えた。男がカウンターの中から時田リーダーに駆け寄るようにでてくると、俺の身体は更に震えた。誰にも気付かれぬ程度に。だが、自分を誤魔化すことはできないくらいはっきりと。
袖をまくったコックコートからでた腕に、目が釘付けになった。
白い、筋張った腕だ。
苦手なアルコールを取ったときのように体中の血液がぐるぐるまわる。顔が赤くなっていたら困る、と咄嗟に思ったが、昔から気が動転しているときほどなぜか落ち着いた態度になる癖を思いだした。誰も俺の動揺には気付かない。
「元気かー?」
「はい。元気っすよー」
「今日のもすげえ美味いよ」
「ありがとうございます。自信作っす」
なんということのない時田リーダーとの会話中も、わざと男から目をそらしていた。
会社の後輩ですよ、仕事仲間ですよ、という体で、時田リーダーのほうばかり見ていた。
でもほんとうは、身体の奥底にびりびりと電流が走る感覚があった。
どうしたらいいのかわからなくて、心の中では泣きそうなくらいだった。
どうしよう。
出会ってしまった。
どうしよう。
この、
白い腕が、
欲しい。