第一章

『きみは眠る ぼくの夢で』より


 

 恋は虫歯みたいなものだ。

 どんなに予防しようとしても、かかるときはかかる。

 最初は痛まなくて、見た目にもわからなくて。

 だけど気付いたときにはもう手遅れ。

 知らんぷりなんてできやしないよ。

 だって、ひどく、痛むから。

 

 

 ――日本人が基本的に小柄というのはほんとうだったんだ。

 ブラインドのすきまから隣の家の庭を覗くみたいな気分でサングラスをわずかにずらして、あたりを見渡しながらそう思った。ハネダ空港は思いのほか賑わっている。規模も思っていたほど小さくはない。小さいのはいきかう人々だけだと思いながら、サングラスをかけなおして近くの椅子に腰を下ろした。

 ゼロ・コークのキャップを回し開けて一口飲み、息を吐く。あらかじめ日本時間に合わせておいたデジタルの腕時計が示す時刻は“1936”。その数字は、予定していた到着時間を一時間以上オーバーしていることを意味していた。到着ゲート付近は遅れた便の乗客を待つ人と、通常通りの便の乗客を待つ人とで混雑している。

 ぼくは心底うんざりしていた。もちろん飛行機が遅れたせいでもあるし、荷物のピックアップにひどく手間取ったせいでもある。なにより、日本人が平均してこんなに小さくちゃ、ここにぼくを迎えにきているはずのミスタ・イズミを〝小さい〟ってポイントで見分けることは不可能に近い。

 ミスタ・イズミの名刺は持っている。電話をかけてみてもいいけれど、実を言うとぼくは、あのお調子者のベイビーフェイスのことがあまり好きじゃない。これについては、理由なんてとくにないよ。

 ――您好。我叫和泉東五――

 下手くそな中国語でそう話しかけてきた瞬間に、察したんだ。あ、ぼく、こいつは駄目だ。ってね。自慢じゃないけど、ぼくのそういう勘は絶対にあたる。

 ミスタ・イズミとは仕事で出会った。ぼくの職業はダンサーだけれど、いまのところ、モデル兼ダンサーと言わなければならないだろう。比率は73で、モデルの仕事のほうがはるかに多い。ミスタ・イズミと出会うきっかけになったのもモデルとしてした仕事のうちの一つだった。ソロ歌手のプロモーションビデオへの出演で、ミスタ・イズミはその仕事のプロデューサーだったのだ。

 ――どうしてそう嫌うのさ。

 アンディは長い指をまるでおもちゃみたいに弄びながら優雅に笑って言った。優しくたれた目尻が、優しい上に官能的に感じられる不思議な人だ。

 ――彼、トーゴ、素敵だよ。中国語の発音は確かに褒められたものじゃないけれど、有能だしセンスがある。人としての愛嬌もあるし……それになかなかセクシーじゃないか。

 頭に血が上り、それに伴って顔も赤くなったと思う。アンディは「やれやれ」とでも言いたげに肩を竦めた。それからまるで子供にするようにぼくの頬に口づけて、有無を言わさぬ微笑みを浮かべた。さあもう機嫌をなおして――言葉にしなくても彼が言っていることはわかった。つまり、もう黙って、ということだ。

 アンディがミスタ・イズミを一目で気に入ったことは、誰の目にもあきらかだっただろう。彼はそういうことを隠さない人だし、確かに――これが一番腹の立つ部分ではあるのだが確かに、ミスタ・イズミに対する評価にほぼ異存はない。有能だしセンスがある。仕事に於いて発揮するべき愛嬌もある。だけどセクシーという表現は到底理解不能。あのチビのどこに性的魅力を感じるって言うんだ? 訊ねたかったけれど、それ以上ミスタ・イズミの話をしたくはなかった(し、するべきでないとも思った)ので黙っていた。しかしこうしてもやもやと思いだすくらいなら、訊いておけばよかったのかもしれない。悔しく思いながら無意識に親指の爪を噛んでいた。

 日本でダンスや演技を学ぼうと思う、と言ったとき、アンディなら止めてくれると思っていた。どうしてそんなことを言うの? 困ったように眉を下げて、しかし彼らしく悠然と微笑み、ベイビィ、きみの場所はここだろう? そう言ってくれるに違いないと。

 何度目になるかわからないため息を吐いた。銀色のキャリーケースの凹凸に貼ってある、さまざまな国の空港コードがプリントされたシールを一つ一つ指でなぞる。古くなって変色し、はがれかけているものもあれば、まだはっきりしているものもある。一番新しいのはもちろんHND。まる一日かかる旅にだって慣れているはずなのに、たった数時間のフライトでひどく体力を消耗してしまった気がするのは、これがぼくの望んだ旅の始まりではないからだ。

 少し酔ったのかもしれない。ぼくは思い、頭の重みに任せるようにして首を反らせた。飛行機に酔ったと言うより人と空気に酔ったのだ。肌や髪の色が似ていても、ここは外国だし、飛び交う言葉は外国語だ。

 目を瞑ろうとした瞬間に、「きゃーっ!」という超音波みたいな声があたりに響いた。驚いて椅子からずり落ちそうになりながらも頭を起こすと、目の前を幼稚園児くらいの子供がくしゃくしゃの笑顔で駆けていった。奇声を上げて走っていくその先に、兄と思しき少年が待っている。小学生くらいだろうか。半ずぼんを穿いていて、小さな顔に似合わない大きなレンズの眼鏡をかけている。少し面倒くさそうな顔をしながら、ほとんど動物みたいな勢いでぶつかってくる弟を受け止める。下手くそなホームドラマみたいな鬱陶しいその光景が、だけど幸せの象徴に見えないと言えば嘘になる。ぼくは舌打ちをした。

 集中していなければまわりから聞こえてくる日本語はすべて言語ではなく雑音のようにぼくの耳に届く。アンディの明晰な英語が早くも恋しい。

 なにもかもが面倒になっていた。ここにやってきたことを、既に後悔していた。

 ふたたび上半身を反らすようにして、ずいぶん長い時間ぼうっと座っていた。人がまばらになってゆく。到着ロビーの天井は低い。

Excuse me. Are you Mr. Liang?

 聞こえてきたのは、発音というより発声の問題でひどく聞き取りにくい英語だった。上半身を起こし、両膝に肘をついてサングラスのすきまから見上げると、見事なまでに全身ブラックコーディネイトの男が立っていた。

 黒いコート、黒いシャツ、黒いパンツ、黒い靴、真っ黒な鳥の巣みたいな髪は鬱陶しく長く、顔を半分近く隠してしまっている。

 ぼくが一瞬怯んだのはでも、黒づくめの男が怪しかったからではない。黒い髪のすきまからぼくを見降ろしている二つの瞳が、いままでに見たことのないような澄んだ黒だったからだ。

 透明の黒。感情が読み取れない、と言うより、感情がそもそも存在しないみたいだった。もし男が「わたしはアンドロイドです」と名のったら、一瞬だけなら信じたかもしれない。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えるくらい、黒い瞳は圧倒的なつめたさを放っていた。

「……Yes. I'm Liang Haoyu……Do I know you?

 不覚にも声が掠れた。緊張している? まさか。

 男に動きはなく、だから彼がぼくの言葉を理解したのかしていないのかはまったくわからなかった。

 見つめ合う。

 ゆっくりとした瞬き。

 うすい唇が動く。ぼくは、どうしてだか目を逸らした。

「――Notiaikidnapper(人攫いじゃない)」

 kidnapper!?

 思いもよらない非日常的な単語に目をまるくした。たとえば男が少しでも笑って言ったなら、ぼくもくだらないジョークに対して愛想笑いくらいはしてやったかもしれない。しかし男は笑うどころか顔の筋肉を必要最低限にしか動かさなかったので、ジョークなのか本気なのか判断がつきかねた。

 ぼくが訝しい目つきで見上げているのが伝わらなかったのは、サングラスで隠れていたせいではないと思う。男はぼくの反応なんてちっとも興味がないというような無表情で、

「じゃ、いこう」

 と、ぼそぼそした英語で言った。いくって、どこに? という質問さえ受けつけない素早さで踵を返す。

「ちょっと! おじさん!」

 呆気に取られていたぼくの声はまるで慌てたようになり、それは図らずも心細げに子供っぽく響いた。勢いよく立ち上がったぼくを、同じ並びの椅子に座っていた人や周囲を忙しなく歩いていた人が見る。「わ、あの男の子背が高いね」という日本語が聞こえた。ぼくの頭はどうやら、日本語を日本語と認識できる程度には覚醒したみたいだ。突然現れた怪しげなアンドロイドのおかげで。

 百八十五センチというぼくの身長は、確かにここではとても目立つ。そうでなくても、国際空港にもかかわらず英語で会話をしている人間がほとんどいないので、英語だったというだけでも十分に視線を集める理由になった。

 ゆらりと、緩慢と言うよりどこか優雅な動作で男が振り返った。微かに首を斜めにしてぼくを見ている。「What?」の動作のつもりだろう。

「失礼じゃない? あなた誰なの? ぼくはちゃんと名のったのに」

 ぼくよりいくぶん低いとは言え、男は日本人にしては長身だった。けれどひどい猫背で、その上身体つきも頼りないので、対峙すればただのおじさんだった。ううん、全身黒づくめというのはぼくが知っている日本のおじさんのイメージではなかったから〝ただの〟というのは多少語弊があるけれど。

 とにかく、見上げたときの瞳の鋭くつめたい黒さは錯覚だったようだ。あのときどうして息をのんでしまったのか、自分でもわからない。しかし一瞬ではあるが確かに、瞳を通して脳みその奥まで貫かれるような感覚があった。味わったことのない感覚。言葉にするなら「恐怖」が一番近いだろうか。

「ああ……。八雲奏太(やくも そうた)。和泉東五(いずみ とうご)のかわりに迎えにきた」

 英語があまり得意ではないのか、それともそういう話し方なのか、表情と同じく必要最低限の言葉で構成されたせりふはあまりにぶっきらぼうだった。とは言え、ミスタ・イズミの名前がでたことにぼくは無意識に安堵の息を吐いた。もちろんほんとうに人攫いなんて言葉を真に受けたわけではないけれど――彼は「人攫いじゃない」と言ったわけだが、そんなのは人攫いの常套句じゃないだろうか?――、とにかく身元がわかっていくらかほっとした。

 ほっとすると同時に、子供っぽく声を荒らげたことが少し気恥ずかしくなった。口元に手をやって、こほん、と小さく咳払いをして気持ちを整える。そうだ、すぐにかっとなるのは悪い癖だって、いつも言われているじゃないか。――きみのそういうところ、とっても可愛いとは思うんだけれどね――アンディはそう言ってくれるけれど、ぼくはもう「可愛い」なんて歳じゃない。満十八歳。立派な大人の男なのだ。

「そうですか。どうもありがとう、ご苦労さま。ミスタ・イズミのかわりに礼を言います。じゃあいきましょう、ミスタ・ヤクモ」

 日本語で言うと、八雲奏太は少しだけ目を大きくした。それは、凝視していなければわからないほどの変化ではあったが、あきらかにぼくの日本語に驚いたという表情だ。

 物心ついた頃から日本人の家庭教師がついていたぼくの日本語は、ネイティヴに近い。八雲奏太の無表情を崩せたのは、自分でも意外なほどに嬉しかった。サングラスを取り、にっこり笑ってみせる。どうだ? 驚いたか? という気持ちは表にださないように注意を払った。そういう下品なことはしたくないからだ。

 八雲奏太がぼくの微笑みの完璧さにハッと息をのむ――ということは、残念ながらなかった。それどころか、わずかに窺えた驚きの表情さえ数秒で消え去った。

「ほんとうだ」

 小さく日本語でつぶやく。日本語もひどくぼそぼそとしていて聞き取りづらく、英語と大差なかった。

 今度はぼくが、「What?」の動作をする番だった。八雲奏太はぼんやりと目線を上に動かしながら(なにか思いだすときの癖のようなものかもしれない)、

「東五が言ってた。〝ヒロは俺のこと、ミスタ・イズミって呼ぶんですよ。そんなふうに 言うのはヒロだけだったから、呼ばれるたびなんかおかしくって〟って」

 と言う。

 彼らがこそこそとぼくの話をしていたという事実にもムッとしたが、それ以上に〝ヒロ〟と呼ばれたことに腹が立った。ぼくは早足で八雲奏太の前に回ると、彼を睨みつけて言った。

「その名前で呼ばないでくれ」

 梁浩宇(リャン ハオユ)というぼくの名前には、確かに日本語で「ヒロ」と読むことができる字が入っている。だけど、ぼくを「ヒロ」と呼んでもいい人間はこの世の中にたった一人だけだ。

「俺が呼んだわけじゃない」

 八雲奏太はポケットに手を入れたまま肩を竦めて「困ったな」というゼスチャーをしてみせる。でも表情はかわらない――どころか、どこか面白がっているようでもあって、ちっとも困っていないことはあきらかだった。更に頭に血が上りかけたが、子供っぽいことはするまいと思いなおして小さく深呼吸をした。落ち着いて、とアンディなら言うだろう。――落ち着いて。怒りを露わにすることと、意見することとはまったく違うんだよ――

「……とにかく、今後その名前で呼ばないで。ハオユとか、ハオでいい」

「オーケー。ミスタ・リャン」

 揶揄に気付くのが遅れたのは、八雲奏太の表情に動きがなかったからだ。たとえばにやにやしていたら、「ミスタ」というのがぼくを真似たからかいだとすぐにわかったのに。

 八雲奏太はぼくの認識している日本人とはほど遠い。日本のおじさんは、小さくて、へらへらしていて、機械仕掛けの人形のように小刻みに頭を下げるものだった。「御坊ちゃま、お元気でしたか?」「いやあ、ご立派になられて」それが彼らに与えられたせりふだ。

 ぼくは怒ることすら忘れて、ぼう然と立ち尽くしていた。八雲奏太はふたたびぼくに背を向けて歩きだす。真っ黒のロングトレンチコートが、そんなぼくを嘲笑うかのような軽やかさでひらりと舞った。

「ちょっと!」

 ぼくの声に振り返った八雲奏太の顔は、いささか面倒そうにも見えた。What?(なに?)がSo what?(だから なに?)になったという感じ。

「荷物があるんだけど」

 八十リットル以上あるキャリーケースを二つ指して言った。中身はほとんど洋服だ(靴やアクセサリーも含む)。日本人が皆ミスタ・イズミのように小さいとしたら、ぼくの長い手足に合う洋服を見つけるのは大変だろう。そう思ったらなかなか絞ることができず、選定には苦労した。可能なら、家のクロゼットをまるごと持ってきたかったのだけれど。

「見ればわかるよ」八雲奏太が言う。

「重いんだよ、すっごく」ぼくも言う。

 腕を組み、ルブタンのつま先を三回鳴らした。察しの悪い男だ。そもそも、ゲストの荷物を持つなんて当然のことじゃないか。

「なるほど。荷物の多いタイプなわけだ」

「二つもあるんだ」

「そりゃ、ちょうどいいな。ミスタ・リャンの腕も二本あるように見える」

 ぼくがぽかんと口を開けると、八雲奏太は口の端を上げてにやっと笑った。それは、出会ってからの数分間では一番生き生きとした、わかりやすい表情の変化だった。鬱陶しい前髪からちらりと覗く黒い瞳がわずかに光り、ぼくは瞬きをするのも口を閉じるのも忘れて八雲奏太を見ていた。

 立ち尽くすぼくの視界の中で、真っ黒の八雲奏太が徐々に小さくなっていく。周囲の人が、ぼくと八雲奏太をちらちらと見ていた。いまのやり取りでは、まるでぼくが馬鹿みたいに映ったことだろう。

 やはり帰るべきだ、とぼくは思った。こんなところ、ぼくのいるべき場所じゃない。

 でかい二つのキャリーケースを放置して、財布とパスポートだけ入った革のクラッチバッグを抱えて歩きだした。八雲奏太とはべつの方向にだ。振り返ろうともしない八雲奏太はぼくがついてきていないことにいつ気付くのだろう。気付いたときには、きっと間の抜けた顔をするだろう。ぼくはなにも非常識なことを言ったわけではない。どちらかと言えば、非常識なのは八雲奏太のほうだ。名のりもせず、ゲストの荷物も持たず、碌にエスコートもせず。

 一つ上の階が出発ロビーだ。むしゃくしゃする気持ちに任せてエスカレーターをがんがん歩いて上り、長い脚をふんだんにさばいて航空会社のチケットカウンターに向かう。視界に捉えるや否や残像のようになっていく人々の話す言葉は、また雑音のように纏まりのないものに変化していく。ここはぼくの国じゃないし、ぼくの居場所じゃない、と、改めて感じる。

「上海浦東国際空港行、ファーストクラス、一枚。いまから出発する一番早い便を。ファーストがなければビジネスでもいい。とにかく早い便を」

 カウンターに座っていた女性はぼくの剣幕と早口の英語にいささか驚いたようではあったが、「少々お待ちくださいませ」と言って手元のコンピューターを操作しはじめた。ぼくは財布から適当なクレジットカードをだしてカウンターに置く。顔を上げた女性がカードとぼくを見比べてきょとんとしていたので、

「支払い。もちろんカードでできるんでしょう?」

 と言った。頭の回転があまりよくないみたいだ。

 ぼくはサングラスをかけなおし、腕組みをして小さな日本人がいきかう出発ロビーを見るともなく見渡す。女性が「可能でございます。……少々お待ちくださいませ」とずいぶん遅れたテンポで答えた。言われなくても待ってるよ、と若干ムッとしたが、カタカタいうタイピングのような音を聞いていたら憤りが少しだけ治まってきた。ふと見ると、さっき噛んでしまったせいで右の親指の爪がすっかり短くなっていた。爪を噛む癖がでたのはずいぶん久しぶりだ。それだけ、ぼくは緊張していたのだろう。

 アンディがぼくを止めなかったのは――と、サングラス越しのうす暗い視界の中でぼくは考える。アンディがぼくを止めなかったのはたぶん、こうなることを予想していたからだ。少し悔しい気持ちもあるけれど、彼らしいと言えば彼らしい。「きっと帰ってくると思っていたよ」と彼が堪えきれない笑いを漏らすとき、それを助長すると知りながらぼくは怒ってしまうだろう。子供っぽいとわかってはいても、アンディの前ではそうならざるを得ないのだ。ぼくは彼の運転するフェラーリにのって――もちろんキャリーケースなんかのせるスペースはないから、空港で発送手続きをしなくちゃならない――、帰るべき場所に帰るだろう。途中どこかに寄って軽く食事をするかもしれない。

「お客様、上海浦東国際空港行の一番早い便ですと、」

「あった?」

 遮るように言うと、女性職員の綺麗に描かれた眉がぴくりと動いた。

「ございます。お時間が、」

「あとで聞く。とりあえず押さえて。座席はあれば窓側でね」

 早口でふたたび遮る。女性は声をワントーン低くして、

「かしこまりました」

 と言った。

 目の前にいる女の機嫌が悪くなろうが、ぼくには関係のないことだ。数分前までの絶望的な気持ちはどこへやら、自分でも現金だとは思うけれど、鼻歌でも歌ってしまいそうな気持ちだった。帰ったらなにを食べよう、とか、とりあえずすぐに仕事を入れることはせずにのんびりしよう、とか、どこか旅行にいくのもいいかもしれない、なんて考えていた。

 だから後ろからぬうっと影が迫ってきて、

「おい」

 という低い声が耳元で聞こえたときには心底驚いてしまった。

「ひゃ!」

 肩を縮めて振り返ると、さっき別れたばかりの、全身黒づくめの八雲奏太が立っていた。

 長い前髪から覗く瞳がぎょろっとぼくを睨む。作り物っぽく見えるのは目の色のせいだけではなく、黒目の割合の多さのせいだと気付いた。妙に迫力のある瞳と低い声に一瞬だけ怯んだが、振り向いたときにずれたサングラスをかけなおして、

Do I know you?

 そう言ってやった。どちらさま? だ。ほんとうはべえっと舌でもだして悪態をついてやりたいくらい。

「あの、お客様……」

 カウンターの中で体勢を低くして、女性がぼくと八雲奏太をテニスのラリーでも追うように交互に見ながら小さな声で言う。ぼくは睨みつけてくる八雲奏太に背を向け(不本意だが、ほんとうは逃げだしたいくらいだった。それくらいこわい目をしていたのだ)、カウンターに向きなおった。

「チケット、取れた?」

「いえ、その、お預かりしておりますクレジットカードが使用不能でして」

「は!?」

 なにかの間違いじゃないのか? と思ったが、この女にすごんでいる暇はなかった。このときのぼくは、日本からでていきたいというよりも、背中にべっとりと張りつく八雲奏太の視線からいち早く逃れたいと強く思っていた。長財布をがばっと勢いよく開いて、入っているクレジットカードを全部カウンターの上に広げると、

「どれでもいいから早く」

 と声の音量を抑えることも忘れて言った。しかし女性がムッとしなかったのは、たぶん彼女にもぼくの後ろに立っている男の不審さが伝わったからだろう。お決まりの「かしこまりました」を言うのももどかしげにクレジットカードをさっと纏めて掴むと、片っ端から支払いの機械に通していく。

 三枚ほど試してみたところだった。

「無駄だ」

 と、一昔前の香港映画の悪役みたいに八雲奏太が短く言った。ぼくも、カウンターの女性も動きをぴたりと止めた。そぉっと振り向くと、八雲奏太はもうぼくを睨んではいなかった。心底面倒くさそうにもやもやした黒髪を掻いている。

「カードは全部止めてある」

 とどめを刺すように言い放つと、八雲奏太はカウンターの女性に、「ご迷惑をお掛けしました」と頭を下げた。それから、ぼくの広げたクレジットカードを雑に纏めてコートのポケットに突っこむ。さっきまでぼくにとって唯一の味方だったクレジットカードは、そうされたことによってまるで役に立たないものであることが決定的になった。

「……どうして」

 というところまでつぶやいて、自分がなにを訊きたいのかがわからなくなった。

「さあ。詳しいことは東五に訊いてくれ。とにかく、俺はお前を連れていかなきゃいけないんだ」

 低い声で言い、八雲奏太はぼくの手首を掴んだ。クレジットカードと同じように、雑に。

「――っ!」

 ぼくは小さく息をのんで抗った。引っこめようとした手は、しかしびくともしなかった。猫背で頼りない印象の身体の、一体どこからこんな強い力がでるのだろう。

「離せよ! 一体、なんの権利があってこんな、あんたなんなんだよ!」

「人攫いだ」

 先ほどとは違うあきらかに不機嫌そうな声で八雲奏太はそんなことを言う。サングラスをしていたからもちろん誰にも見えはしないけれど、ぼくは驚いて忙しなく瞬きを繰り返した。だってさっきは――

「人攫いじゃないって言ったじゃないか!」

 異国の空港に、ぼくの声がこだまする。情けないぼくの声が。

「帰れると思うのか?」

 予想外のせりふに、ぼくはびくんと身体を固くした。帰れると思うのか? 自分自身に問いかける。

 振り返りもしない八雲奏太には、ぼくの強張ったようすなんかわからなかっただろう。声色は瞳と同じくらいつめたい。小さな子供のように引っ張られながらぼくは俯いた。気に入りの靴のつま先が視界に入る。今回の日本いきのために両親が買ってくれたものだ。買ってくれたと言っても、彼らはカードを渡しただけだった。どんなものを買ったのか、どれくらい買ったのか、何一つ訊ねられはしなかった。

 そうだ。帰れるなんて、誰かが待っているなんて、ほんとうに思っているのか?

「……痛いよ、離せよ」

 立ち止まったぼくのひとりごとみたいなつぶやきに、八雲奏太が振り返った。黒い瞳に見据えられ、ぼくは慌てて顔を背けた。

「離さない」

 なんの感情も読み取れない声に、だけどぼくの心臓はずきりと痛んだ。

 離さない、と、ほんとうは言ってほしかったのだ。アンディに? パパやママに? 先生に? 友人たちに? わからない。この人攫いでないことだけは確かだけれど。

 ぼくの手首を掴んでいる八雲奏太の手は、瞳とも声とも似つかわしくない温かさだった。

 触れたところからじんわりと、

 ぼくを侵食する。

 熱が。

 

(第2章につづく)