──歯のさきっちょがざらざらする──
と、あのときなつめは言った。記憶は曖昧で、それは冬、いつものように二人で、なつめの大きすぎる子供部屋の大きすぎるベッドに寝転んで漫画を読んだりお菓子を食べたりしていたときだったかもしれないし、夏、せっかくの夏休みにもかかわらず、ずっと微熱が下がらないなつめのそばで、やはり同じベッドの上で──だが漫画もお菓子もそのときにはない──寝転んで話をしていたときかもしれない。
いずれにせよオレとなつめはまだ小学生だったということだけははっきりしている。季節はわからないけれど、なつめの乳歯が生えかわる時期だったから。
──さきっちょ?──
オレは訊ねた。覗きこむと、仰向けに寝転んでいるなつめの顔にオレの影が落ちた。そうしてできた影によってうっすら暗くなったとき、いっそう輝きを増すなつめの瞳いっぱいに自分が映っているのを見るのが、オレは好きだった。このときはでも、好きだと改めて言葉にする必要がなかった。なつめの瞳に映るのは、たとえば彼の家で飼われているアフガンハウンドのヴェルダであり、小さな顔と長い手足を持った彼の祖母の登紀子(ときこ)さんであり、羽根木家に長年仕えている使用人の久子(ひさこ)さんであったが、その誰がそばにいたとしても、同じ空間にオレがいれば真っ先に、──そして常に、彼の瞳に自分が映っているというのは当たり前のことだったからだ。
さきっちょ、の答えのかわりに、なつめは小さく口を開けて見せた。鮮やかなピンク色の粘膜を突き破るようにして生えはじめたばかりの永久歯の表面を、紅い舌先で何度かなぞり、困ったように眉を下げてオレを見た。
なつめがその〝ざらざら〟をオレにも理解してほしいというのが伝わったので、オレは人さし指をその小さな空間にそっとさし入れて、まだ白いかけらのようにしか見えない永久歯を撫でた。彼が困るほどざらざらしているとは感じられず、首をわずかに傾けると、なつめが半ば泣きだしそうな顔をして、「ちがう」と言った。あと数秒でうっかり、「なにが違うの?」と訊いてしまうところだった。そんなことを訊いたら、なつめはひどく混乱しただろう。
瞳を合わせたままこくりと頷くと、なつめはほっと息をついた。オレは自分の舌で、なつめの永久歯をなぞった。そうすると、〝ざらざら〟はすぐにわかった。〝ざらざら〟と言うよりは〝ぎざぎざ〟のほうが近いような気がしたが、それはたいした問題ではない。わかった、というのが、唯一重要な点だったのだ。
なつめの口の中は柔らかく温かく心地よく、離れ難くなって、舌先を歯の表面から頬の内側に滑りこませると、なつめがきゃっきゃと笑った。くすぐったいよ、と言って逃げようとするが、細く力のないなつめはすぐに捕まってしまう。広いベッドだったので、ごろごろと転がって逃げるだけでも、オレが捕まえるときにはなつめの息は上がっていたし、頬はばら色に染まっていた。オレたちはそれからずいぶん長い歳月、その行為を繰り返した。なつめが小さく口を開けて、「かける、ざらざら」と言えば、オレは自分の舌先でなつめの歯を撫でてやった。乳歯はほぼ永久歯に生えかわり、歯牙漂白(ブリーチング)など必要ない真っ白な歯がすばらしい美しさで並んだ。だが一つ一つは貝殻のように小さいため、なつめはものを噛み取るのがとても苦手だ。その所為なのかはわからないが食に愉しみを覚えないらしく、小食のなつめの身体は、いつまでも弱弱しく頼りないままだった。季節のかわり目には熱をだし、腹を下し、珍しいものを食べればアレルギーがでたし、過剰な油分や糖分や塩分は身体に入れた瞬間に拒否反応を起こして吐いた。
登紀子さんも久子さんも主治医も皆──言葉の通じないヴェルダでさえ!──一様になつめの体調を心配したが、本人と、それからオレは、彼らほどは心配していなかった。
なに、それは当然のことだ。熱をだして倒れれば、オレがおぶってやればいい。アレルギーのでるものかどうか、彼が口に入れる前にオレが見極めればいいし、吐いてしまったらオレが片付ければいい。オレはそれを知っていた。なつめも、むろん。
中学一年生の春、なつめは皆より一ヶ月ほど遅れて学校に通いだした。その頃になればもう、新学期や新学年の初日の教室になつめの顔が見当たらないことは当たり前のようになっていて、誰も、「羽根木はどうしたの?」とも、「いつこられそう?」とも、訊ねてこなかった。教師は連絡事項のプリントや宿題を必ずオレの机に二組ずつくばったし、誰もそれを不思議に思っていなかった。
オレと幼馴染の羽根木なつめが通っていた仁慧(じんけい)学園は、中の上くらいの家柄の子供たちが集う、歴史ある小中高一貫の私立男子校だ。歴史あるというのは学園のホームページやパンフレットに書かれている文言で、もっと砕けた言い方をすると、大昔からある、地元のそこそこ金持ちの家の子供が代々通う学園で、スポーツに於いても勉強に於いてもこれと言った特色はないので全国的に有名ということはもちろんなく、だから他府県からわざわざ転入してくる者もいない、──面白味はまったくないが安全で平和な場所だった。
たいていは優しく愚鈍に育てられた子供ばかりだったから、病弱ななつめが表立って苛められることはなかった。とは言えクラスに馴染んでいるわけではなく、苛められないかわりに誰からも話しかけられない、というのがなつめのポジションだった。なつめは確かに浮いていたけれど、でも、なつめを「かわいそう」だと思っている者は一人もいなかっただろう。なつめは地元では有名な名家の子供で、仁慧学園にも多大な寄付を寄せていた(らしい)ため、教師の中にはなんとなくなつめを特別に扱うような空気があった。なにより、なつめ自身が友達というものをちっとも必要としていなかった。友達? 否、家族を除いては、オレ以外の人間を必要としていなかった、と言ってもいいだろう。
「また羽根木が吐いた!」
一人がそう叫んだのを皮切りに、「うえっ」とか「ひゃー」とか、「またかよー」とか言う声があちこちから聞こえた。反射的に眉を持ち上げたのは、単純にそれが音として不快だったからだ。
その頃、オレももちろん中学生になったばかりのガキだったわけだけど、「どうして子供っていうのはこんなに五月蠅いのだろう」と思っていた。小学生としての六年間を終える頃には理解はしたし慣れてもいたが、保育園や幼稚園に通っていなかったオレは、集団の子供の煩わしさにはじめはとても驚いたものだ。一人一人話をしてみれば、いいやつも嫌なやつもいるにせよそれほど五月蠅いとは思わない。だが固まりになると、子供の声は皆同じ高さになり、話していても抑揚がなく、えさを欲してきーきー言っている猿の声みたいにオレの耳に届く。
「なつめ!」
シュートするはずだったサッカーボールを放りだして、オレは走った。視界の端にジャージ姿の体育教師が走ってくるのが見えたが、まったくのろますぎるその動きに内心舌打ちをした。ガキ同士のサッカーの授業なんかより、木蔭で見学しているなつめのほうにもっと気を配るべきだ。
吐瀉物の内容は、そのまま朝ごはんのようだった。バターのたっぷり入ったスクランブルエッグ。蜂蜜をかけて食べるパンケーキ。白インゲンのポタージュ。外国産らしいチーズ。色とりどりの蒸し野菜と、鮮やかな果物。たぶんそんなところだ。進学に合わせて一時帰国した母親が一生懸命作ったものだから、きっと無理をして詰めこんだのだろう。すべては食べられなかったに決まっているが、それでも、なつめなりに。朝迎えにいったときから顔色が優れなかったのだ。
「なつめ、息できるか? 眩暈は?」
骨の浮いた細い背中をさすり、蹲(うずくま)っているなつめを胸に抱く。一瞬顔を上げたなつめがオレを視界に捉えて安堵の微笑みを浮かべたのを、見逃さなかった。吐けば楽になると判断して安心した。すべてだし切らせるために強めに背中を叩いてやると、なつめは苦しげに喉を締めつけるような声をだし、オレの体操着の上に少し吐いて力尽きたように瞼を閉じた。
「せんせー。オレ、保健室いってきます。ここ、あとでホースで水撒いておいたらいいですか」
なつめの腕を肩に掛け、支えながら立ち上がらせて言うと、のろまな教師は「ああ」と短く頷いた。それからすぐに、「いや」と打消しの表現を使い、「片付けは先生がしておこう。納見(のうみ)は、チャイムが鳴るまで羽根木(はねぎ)についていてやりなさい」と、一端の教師らしく言った。
保健室は学校の中で唯一好きな場所だった。
校舎の一番端の庭に面した場所に位置していて、廊下側の窓は常にカーテンが閉じられ、人の声はほとんど夢の中で響く程度にしか届かなかった。庭側の開かない窓の四隅には緑の蔓が這っており、いまの季節はひんやりと涼しい。たぶん冬は、室内の温かさと窓の外の風景のきりりとした寒さが対照的で居心地がいいだろう。まだ体験したことはなくても、保健室というのはたいていそういうものだと知っていた。新入学生の中で、入学してからいままでここに訪れた回数はたぶんオレとなつめが一番多いだろう。
居心地がよかったのは、養護教諭──所謂保健室の先生が、感じのいいおばさんだったからというのもあるかもしれない。名前は谷川先生という。実際の年齢はよくわからないが、生え際が白っぽくなった髪をいつも大雑把に一つにまとめていて、オレの母が好きな、ジャンレノみたいなまるい眼鏡をかけていた。なつめを抱えていくと、たいてい、「あらァ」と、たいして驚いてもいないくせに驚いたみたいな声をだし、オレがなつめをベッドに横たえている間に、オレの着替えを用意してくれるのだった。ここにくるときはほぼ、オレの制服のシャツはなつめの吐いたもので汚れてしまっていたから。
「あ、今日は体操着だから大丈夫です。教室に制服がありますから」
なつめに布団を掛けながら言うと、
「でも、さっさと洗ったほうがいいよ。洗濯機、回しといてあげるから」
と言ってくれたので、その場で上の服だけ脱いで渡した。確かに、時間が経つとしみになって落ちにくいかもしれない。洗うのはオレの母ではなく登紀子さんか久子さんなので、「またなつめさん、具合が悪くなったのね」と言ってる悄気(しょげ)る姿を見ることになるというのも避けたいところではある。
谷川先生はオレに着替えのTシャツを手渡すと、「じゃあ、奥にいるから、なんかあったら声かけてね」と言ってドア一枚で隔てられている四畳ほどの事務室に引っこんだ。こういう適当な感じが母と似ているので、たぶんオレはこの先生が作りだす空間が心地いいのだろうなと思った。
「……かける……」
ベッドのそばの丸椅子に座って、谷川先生が趣味で勝手に置いているのであろう文庫版のブラックジャックを捲っていたら、か細いなつめの声が聞こえた。覗きこむと、清潔な瞳がオレを映していた。
「なつめ? もう喋れるか?」
「うん」
「バカ。だから言っただろ。今日は暑いから、教室か保健室にいろって」
そう言いながら触れたなつめの頬は、いままで外にいたのが嘘のようにひんやりとしていた。体温が下がっているのだろうかと心配になり、頬にあてていた手を首筋に滑らせると、なつめが身を捩って小さく笑った。
「くすぐったい……」
仰向けになって、白い布団にくるまりながら笑うなつめは赤ん坊みたいだ。くねくねする姿が可笑しくて、布団に手を入れて脇腹をくすぐると、きゃあ、と小さな叫び声を上げて更に笑った。元気そうだ。
「だって、かけるの、サッカー、見たかったんだ」
切れ切れに言いながら、なつめの細い手がオレの両手首を掴んだ。吸い寄せられるように布団にもぐりこみ、額をぴたりとくっつけて、
「倒れたら意味ねーじゃん」
と答えた。なつめと話していると、声が小さくなってしまうのが不思議だ。サッカーのパスを受け取るときも、数学の問題をあてられて、わかりませーん、と答えるときも、あんなに大きな声がでるのに。
なつめのそばにいると、世界はびっくりするくらい静かだ。そして、ほんとうの世界はこっちだ、と、そのたびに思う。
「あのねえ、かける、お母さまがね、今日はかけるくんも一緒におゆうはんを食べましょうね、って」
内側の湿った小さな手でオレの顔をあちこち触りながらなつめが言う。オレは肩を竦めて、
「うーん。今日はうちも、お母さんが帰ってくるんだよな」
と答えた。
「じゃあバーごはんかなあ?」
「それか、図書室レストランだよ」
最悪だろ? とオレが言うと、なつめは首をわずかに斜めにして、飴玉そのもののような瞳でオレを見つめていた。
最悪もなにも、なつめはそのどちらにもいったことがないのでわからないのだ。きっと、一生いくことはないだろう。バーごはんのときの、馬鹿みたいにでっかいバンズのハンバーガーもセットででてくるオレンジ色のチーズまみれのポテトも、図書室レストランのときの、脂の塊である鳥の肝臓も、なつめの身体にはどう考えたって悪影響だから。
「かける、また背が伸びたんじゃない? いまどきの男の子ってそんなもの?」
脱いだストッキングをくるくるまるめてベッドのある方向に投げ、母は言った。
大きな出版社で雑誌の編集という仕事をしている母は滅多に家に帰ってこない。職場の近くにマンションを借りていて、ほぼそこで生活をしている。そこにはオレもいつでもいっていいことになっていて、だからもちろん合鍵も持っているし訪ねたこともあるのだが、換気も掃除もしていない空気に母のつける香水や化粧品のにおいが雑ざっていて、とてつもなく健康に悪そうな部屋なので必要がなければいきたくない。
「わかんないけど。そんなにでかいほうじゃないよ、クラスの中では。中間ぐらい」
「ねえ、ワインってあったかなあ?」
母の質問はたいていこんなふうで、答えても会話のキャッチボールは成立しない。でも母の言葉を借りるなら、オレは彼女にとって世界にたった一人の血を分けた肉親なので、
「ない」
というように、答えがはっきりしている質問にはきちんと答えるよう心掛けてはいる。
オレを〝授かった〟ことがきっかけで結婚した父と母は、肝心のオレが生まれた直後にそれが大きなミスだったことに気付きはじめ、いまはお互いの人権を尊重し合うために別々に暮らしている。二人とも派手好きで付き合いが広かったため盛大に行われた結婚式では、両家の親せきはもちろん、お互いの上司、恩師、先輩後輩友人たちという恐ろしく大勢の人たちが二人の結婚を祝福してくれたそうだ。目がちかちかしそうなほどさまざまなドレスを着た母が写っているその日の写真はどれも、幸せそうな人々の笑顔で溢れかえっていた。ほとぼりが冷めるまでは籍を抜くわけにはいかない、という彼らの意見もわからなくはないと思うほどに。
まったくとんちんかんな母と父だけれど、オレは二人とも好きだ。別々に暮らしていれば大声で喧嘩し合うこともないし、それぞれに見ればとてもいい人たちだと思う。二人とも、月に一度か二度は食事にいこうとか遊びにいこうとか言ってくれるし、父はこの家に泊まることはしないが、母は食事のあとはこうして泊まっていく。平凡な小学生から中学生になったばかりのオレの日常に一日単位での変化など起こらないので、「学校はどう?」「まあまあ」とか「イジメとかに遭ってない?」「遭ってるわけないじゃん」とかいう報告及び連絡は、実際月に一度でも多いくらいだった。
「えー。ないのお? ワイン一杯だけ飲んでから寝たいのになあ」
「さっきまで飲んでたじゃん」
「あれはビールでしょ。全然違う。かけるも大人になればわかるわよ」
今日はバーごはんの日だった。バーごはんというのは、その名の通りバーでする食事のこと。子供なんか連れているとふつうは断られそうなものだが、母といくのは彼女が仕事で使ったことのある店や、空間デザイナーという不思議な肩書の仕事をしている父が手掛けた店なので、母とオレは彼の名前を借りれば快適に過ごせるのだった。
ちなみに図書室レストランというのは、フランス料理のコースのことだ。いままでいった店はどこも物凄く静かで、フォークやナイフを動かすわずかな音と大人たちの囁くような話し声しか聞こえてこなかった。ここもまた、母、或いは父の仕事関係の店ばかりだったので、時折シェフがでてきたり支配人がでてきたりしてサーヴィスが受けられた。母はサーヴィスの内容そのものよりも、サーヴィスを受ける価値のある自分、というのに満足を覚える人なので、いつもとても嬉しそうにしている。
オレは、はっきり言って全然嬉しくも楽しくも、それどころか美味しいとすら感じない。『図書室では しずかに!』という張り紙がないだけで、いく店はどこも、図書室にも匹敵する静けさと緊張感が漂っている。オレはなにを食べているんだかちっともわからなくなってしまう。
それに比べたらバーごはんのほうがまだましだ。ハンバーガーとかステーキとか、単純でわかりやすいメニューが主だし、カウンターの中でお酒を作っているバーテンダーは、若い人も歳を取った人も皆背筋がぴんと伸びていて感じがいい。オレは飲まないけれど、お酒の色はフルーツジュースみたいで綺麗だ。ときどき果物も添えてあって、ちょっと洒落ている。難を言えば、どこの店もスツールが高くて、座るのも降りるのもちょっと苦労する、ということくらいだ。まあそれこそ、「大人になれば」どうにでもなることなのだろうけど。
「最近も羽根木さんのおうちでご馳走になったりするの?」
鮮やかな黄色の柄が入ったワンピースを脱いだ母は、葡萄色(えびいろ)のブラジャーとショーツという格好でキッチンにいき、冷蔵庫を開けた。裸に近い状態だが、耳にはダイヤのピアス、首にも揃いの一粒ダイヤのネックレス、足首には華奢な小豆チェーンのアンクレットをしている。アクセサリーは武器よ、と、母は言う。意味がわかるような気もするし、わからないような気もする。
「ときどきね」
ときどきというのがどれくらいの頻度を指すのかはわからないがそう答えた。母はダイエットのために飲んでいるというオレの嫌いな不味い水をボトルごと取りだして振り向き、
「あんまりご迷惑かけちゃ駄目よ」
と、母親っぽい口調で言う。でもすぐあとに付け足した、「家政婦さんだって雇ってるんだから、無駄にしないでね」というのが本音だろう。週に三回やってくる家政婦さんには、掃除と食料品の買い物だけしてもらっている。水とか牛乳とか、パンとかカップ麺とか。一人でも簡単に食べられるものを買ってきてほしいとオレが勝手に頼んでいるのだ。母が結んだ契約にはたぶん炊事洗濯も入っているのだろうが、どちらも羽根木家で済ましてしまうことが多い。なつめ坊ちゃんのお友達、という肩書に関係なく、久子さんは子供が一人で食事をするなんて断じてあってはならない、と考えているのだ。母が久子さんを苦手だと言うのはこういうところだろう。我が家は、久子さんの基準では「断じてあってはならない」ことのオンパレードの家庭だから。
でも、羽根木家の人たち──主に登紀子さんと久子さん──がオレの世話をしてくれるのは、オレが近所のヘンテコ夫婦の不憫な子供だからではない。オレの父と、なつめの母親である百合子さんが高校時代の同級生で、百合子さんが羽根木家に嫁いだあとに行われたリフォーム工事の手助けを父がしたからだ。
「祥太(しょうた)って絶対百合子(ゆりこ)さんのこと好きだよね」というのは半ば口癖のようになっている母の見解だ。祥太はオレの父の名前。母曰く、父がここに土地を買って家を建てたのは、百合子さんが羽根木家に嫁いだと知ったからだと言う。「高校の同級生だかなんだか知らないけど、未練たらしくて馬鹿みたーい」だそうだ。
父との関係がどうあれ、母は百合子さんが嫌いらしい。苦手ではなく嫌いなのだと本人がはっきり言った。「助けてって感じで目をうるうるさせて、でも口にはださずに手をさし伸べられるのをじっと待ってる感じがすごく嫌」で、「すぐに泣くところも鬱陶しい」らしく、「男がなんでもしてくれるのが当たり前って節があるでしょ」だそうで、「それにまんまとハマっちゃう男ばっかりっていうのが一番嫌」ということ。最後のは、百合子さんの所為(せい)ではないと思うけれど、面倒なので指摘はしない。
確かに百合子さんはよく泣く。悲しいわけではなく、驚きや衝撃に耐えられない性質なのだ。なつめを育てることを実質放棄しているのも、そういうことなのだと思う。なつめの突然の高熱や、原因不明のアレルギーに、百合子さんは怯える。毎度毎度、まるではじめて遭遇した出来事のように。
──わたしは、なつめさんのお母さんにはなれない──百合子さんがそう言ってさめざめ泣いているのを見てしまったことがある。まだ小学校にも通っていない頃、父と一緒に羽根木家に招かれたときだった。ほんとうはなつめの父親も帰国する予定だったそうだが、急遽仕事で帰ってこられなくなったと言って、百合子さんだけが帰ってきていた。
──そんなことないよ、百合ちゃん。いまはまだ自信がないかもしれないけどさ、お義母さんだって助けてくださるんだから、大丈夫だよ。早いうちにこっちに帰っておいでよ──
そう言って百合子さんの肩にぎこちなく触れていたオレの父は、なんだかちょっと格好悪かった。まわりには登紀子さんも久子さんもいなかった。確かオレもトイレに向かう途中かなにかで偶然に通りかかったのだと思う。二人は実年齢よりもずっと若く見えた。まあ、そのときはオレもいまより子供だったから、これはあとになって持った感想だけど。
お母さんになれるもなれないも、自信があるもないも、なつめは百合子さんから生まれたのだから、百合子さんはなつめのお母さんだ。食事や衣服や学校のことに関しては登紀子さんや久子さんがしてくれるし、主治医だっている。なつめは百合子さんを見れば「お母さま」と言って頬をぽっと紅くして喜ぶし、抱っこをしてもらったり本を読んでもらうことしかねだらない。
大人は色んなことを、勝手に難しく考えるなあ。オレは思いながら、母が脱いだワンピースをハンガーに掛けて適当な場所に吊るす。父がデザインしたこの家の中には、コンクリートの壁のいたるところにフックがあり、洋服やバッグや絵や植物を掛けられるようになっている。
「ねえ、羽根木さんのお宅に、なにか持ってご挨拶に伺ったほうがいい? かけるがお世話になってますーって」
エドハーディーの恐ろしく派手なスウェットの上下を身に着けて、すっかり寛(くつろ)いだようすでソファにだらしなくもたれて座りながら母が言う。さっきまで水のボトルを持っていたはずなのに、手にはビールの缶を握っていた。
「べつにいらないと思う」
「そう」
本気で持っていくつもりなどなかったくせに、母はぱっと顔を明るくして、肩の荷が下りたとでも言いたげに笑う。「でも、簡単なお菓子くらいあなたに持たせたほうがいいかしら」とか付け足しながら。
「オレ、明日も学校だから先にお風呂入るね」
母の付け足しには答えずにそう言った。登紀子さんも百合子さんも久子さんもなつめも、既製品のお菓子類はほとんど口にしない、と教えたら、きっと盛大に眉を顰めるだろうから。
一学期ももうすぐ終わりを迎えるという日の朝、家の電話が鳴った。指についていたパンくずをテーブルの上で適当にはらい、リビングの端に置いてあるファックスつき電話の受話器を上げる。意識して見ているわけではないがなんとなくついているテレビの画面右上には、7:48と表示されていた。
「よう、かけるか」
この時間、父のテンションは妙に高い。付き合いの浅い人たちは、「納見さんは朝型なんだな」と思うようだがそれは間違っていて、父はたいていこのあと八時頃から昼の十二時か一時まで眠り、それからずっと起きて仕事をしているのだ。だからこれは、夜のテンションをそのまま引きずっていると言えるだろう。
「おはよう」
寝ていない相手におはようと言うのも可笑しいな、といつも思う。まあ、父がオレの些細な一言を気に留める人でないことはわかっているが。
「まだ家にいるのか。学校、遅刻じゃないのか?」
くくく、と父は笑う。ほんとうに遅刻を心配しているのならこんな時間にかけてくるなよと思うが、こういう冗談っぽいやりとりをしたい年頃なのだろうと思って諦める。遅刻なんてたいしたことじゃないって、オレも父も、たぶん母も知っている。
「大丈夫。でも、なに?」
「もうすぐ夏休みだろう。旅行しないか」
「海外は嫌だ」
なつめはパスポートを持っていない。そうでなくても、飛行機や新幹線やバスといった乗り物に、長時間のることはできない。一昨年の夏、父がどうしてもと言ったので父子水入らずで五日間ハワイにいった。ついた初日はちょっと面白かったけれど、海が綺麗なのも空が青いのも、見慣れてしまえばそれだけのことだ。日本にだってそういう場所がないわけではない。パワースポットにありがたがっていくほどパワーがないわけじゃないし、食事は日本のほうがずっと美味しかった。すっかり倦(う)んで、でもいちおう日焼けだけはして日本に帰ると、熱をだしたなつめがベッドでぐったりしていた。登紀子さんの話によれば、オレが旅行にでかけた日の夜から熱がでたそうだ。布団からでた細い腕を見ると胸が痛くなった。手の甲に、点滴の痕があった。それから海外旅行はいかないと決めたのだ。
きっぱり答えると、電話の向こうで父が苦笑いをした。見ていなくともどんな顔かわかる。
「海外じゃないよ。車で一時間半……二時間くらいかな? もちろん、なつめちゃんも一緒に。なつめちゃんがしんどくならないよう、休憩は多めに取っていこう。友人がレストランをオープンしたんだ。近くに洒落たホテルがあって、コネで安く泊まれるらしい。そこにプールもあるから──」
「わかった。なつめに訊いてみる。なつめが嫌だって言ったらいかないよ」
遮るようにして言った。遅刻なんてたいしたことじゃないけれど、しないに越したことはない。
「──まるで王子様だな」
そう言って笑った父の声が、からかうようではなく困っているようだったので、聞こえなかったふりをした。「メールする」と言うと、「おう。いい返事を期待してるよ」と返ってきた。そのときはもう困った声ではなかった。切り替えの早さが重要だ、と父は常々言っているから。
受話器を置いて窓の外に目を遣ると、曇りでもないのにぼんやりした重い景色が広がっていた。熱気だろうか、と思ってうんざりする。なつめは休んだほうがいいかもしれない。
どうせあと数日で夏休みだ。
右側から、甘く煮た牛乳のような香りがする。もっと正確に言えば、甘く煮た牛乳を飲みほしたあとのような香りだ。
オレの右肩にもたれて眠っているなつめは、膝にクリーム色のくまのぬいぐるみをのせている。アルパカという動物の毛でできているらしいそれは、百合子さんの「お友達のテディベア作家さん」がなつめの誕生日に作ってプレゼントしてくれたものだそうだ。座らせた状態で高さは二十センチほどあり、なつめはそれを、「くまのヴェルダ」と呼んでいる。アフガンハウンドのヴェルダが聞いたら憤慨しそうだが、なつめにとって愛しい動物はすべてヴェルダなのだろう。犬でもくまでも、生きていてもいなくても。
「いやあ、しかし、あれだな」
はじめてのサービスエリアではしゃぎすぎたなつめは、買ってもらったお菓子も食べずに、車に戻るや否やすうすうと寝息を立てはじめた。うっすらと汗をかいた額に前髪が張りついている。それを掻きわけてやっていたら、運転席に座っている父が言った。
「なに?」
「なつめちゃんは、年々お母さんに似てくるなあ」
ミラーに映っている父の顔は、嬉しいような困ったような、複雑な表情だった。
「そうだね。確かに、百合子さんはなつめに似てる」
長いまつ毛を見下ろしながら言うと、「ははっ」と父が笑った。真っ赤なポロシャツの襟を立てているという格好が、センスがあるかないかはべつにして、それは父のがっちりした肩幅と、ゴルフやマリンスポーツで焼けた肌によく似合っていた。
「違うだろ。なつめちゃんが、お母さんに似てるんじゃないか。順番的にさ」
面白がっている瞳とミラー越しに目が合ったので、オレはちょっと首を竦めて見せた。どちらを中心に考えるかというだけの違いだ。父は百合子さんを中心にしてものを言うし、オレの中心にはなつめがいる。
数日前、いつものように広いベッドの上で漫画を読んだりお菓子を食べたりしながら、旅行のことをなつめに話してみた。
「旅行?」
なつめは大きなまくらの上に漢字練習ノートを広げ、そこに〝微生物〟という漢字を繰り返し書いている。筆圧がひどくうすい上に安定の悪い場所で書くものだから、なつめの漢字練習ノートの出来は結構悲惨だ。でも微生物は微生物と読めるし、どれも点線の枠内には収まっている。なおしようがない。オーケー。
「そう、旅行だって。車で二時間くらいって言ってた。レストランとプールがあるって」
「レストランとプール?」
「そう、レストランとプールがある。オレとなつめと、お父さんと三人でいくんだ」
「かけると、おれと、かけるのお父さまと?」
「そう」
なつめとの会話はときどきこんなふうにまどろっこしい。同じ言葉を何回も繰り返すのはでも、なつめが頭の中で物事をきちんと整理しようとしている証拠だ。興味のないことに関しては繰り返し訊ねたりはしない。オレは、なつめが旅行に興味を示しているのがわかってちょっと驚いた。
たっぷり時間を置いてから──そうでないとなつめが混乱するかもしれないので──、「いきたい?」と訊ねた。覗きこんだ先の瞳は漢字練習ノートに向けられているが、ほんとうはもっとべつのものを見ているのだろう。
「……」
「登紀子さんにもついてきてもらうか? それか、久子さんか」
「ううん」
なつめは首を横に振ると、いつになく素早い動きでオレの脇腹に腕をさしこみ、ぎゅうっと抱きついてきた。
食べていたポップコーンを慌ててのけたが間に合わず、二人の身体の間で、ぺきっ、とか、みちっ、とかいう音を立ててつぶれた。
「かけると、おれと、レストランとプール」
うふふ、となつめが笑った。いつの間にか排除されてしまった父がほんの少しかわいそうだったが、
「そう、なつめと、オレと、レストランとプール」
と言って腕の中のなつめを抱きしめ返した。なつめの口から聞くと、レストランもプールも綺麗ですばらしいところに思えた。
大人たち同士のやりとりは大人たち同士で済まされた。オレの父と電話で話す登紀子さんは、「ええ。もちろん、それは、かまいませんけれど」「大丈夫かしら、ご迷惑をおかけするんじゃないかしら」「ええ、いえ、そこまでして頂くわけには」と、まるでなつめが遠い外国に旅立つように心配していたが、久子さんが、「まあ素敵! なつめ坊ちゃんも少しぐらい遠くにいかなくてはいけませんわ。かけるくんが一緒ならなにも心配はないじゃないですか」と言って満足気に頷いたので、最終的には、「そうよね。夏休みですものね」という具合に納得したようだった。なつめは小学校の修学旅行にも体調不良でいけなかったので、登紀子さんの心配はもっともと言えばもっともだ。
もちろんでかける前には、羽根木家の電話番号、なつめの主治医の電話番号、ホテルから一番近い病院の住所と電話番号……等々を書いた紙を持たされたけれど、それは予想していたことだった。
何度か休憩を狭みながら、結局二時間半以上かけて到着したホテルは、ホテルというよりは立派な邸宅、或いはコンサートホールという感じだった。まわりにはぽつぽつとしか建物がなく、どれも背が低いので、青空が普段よりもずいぶん高く感じられる。照りつける太陽は眩しいが、足元から跳ね返ってくるような嫌な熱気はなかった。「都心よりも二度くらい気温が低いんだぞ」と、トランクから荷物を下ろしながら父がなぜか自慢げに言った。
グレーに近いうすい水色のリュックサックを背負ったなつめは、右手にくまのヴェルダを、左手はオレのTシャツの裾を掴んで、広々としたエントランスを眺めていた。エントランスは照明がうす暗く冷房がきいていて、入った瞬間は外とのギャップに目がちかちかした。とても静かだ。
同じくチェックインをするために待っている客や、散策帰りなのか、トレッキングシューズを履いた若い夫婦なんかが通りがかりになつめを見て、「可愛いね」とか「まあ」とか言いながらくすくす笑みを漏らした。からかっているようではなく、どうしても微笑まずにはいられないというようだった。
案内された部屋はメゾネットになっていた。「二階を二人で使うといい」と父が言い、なつめの手を引いて数段上ると、中二階の小ぢんまりした空間に、紺色のカバーが掛けられたシングルベッドが二つ並んでいた。正面の壁に横長の大きな鏡がついていて、その所為か部屋は実際よりも広く、なんとなくつめたく感じられた。ホテルというのはどこもそうだけれど、最初は恐ろしくよそよそしい。ぴんと張ったシーツ。清潔な枕カバー。ベッドとベッドの間にある小さなチェストの上の、書き物をするには暗いランプ。なつめを振り返ると、リュックサックを下ろすこともせず、もちろんくまのヴェルダをしっかりと抱いたまま首を斜めにしている。
「どうした?」
と訊ねた。一階にいる父が部屋の中央に置いてあるソファにぎしっと音を立てて座り、煙草に火をつけようとしたので、「お父さん」と素早く声をかけた。あと数ミリでライターの火が煙草の先につく、というところで、父の広い肩幅がびくっと縮こまった。オレのほうを見上げ、叱られた子供のように眉を下げる。
「禁煙だよ」
「どこかに書いてあったか?」
「さあ? でもふつう、こういうところって禁煙だろ、いまどき。それに、なつめがいる」
「……」
父は咥えた煙草を口先で何度か上下させ、煙のかわりに「ふーっ」と息を吐いた。ソファの前のテーブルに置いてあったホテルの案内をぱらぱら捲り、小さな声で、「ああ、No Smokingとも書いてあるな、うん」と、誰に言うでもなくつぶやく。名残惜しそうに煙草とライターを仕舞うと、かわりにポケットから携帯電話を取りだした。画面を数秒見つめた父は心持ち笑顔になったあと、親指だけを動かして短い操作をする。メールだろうか。
「──知り合いに会いにいってくるから、かけるとなつめちゃんはプールにでもいっておいで。中庭も涼しくていいかもしれない。五時には戻ってくるよ。それから、車にのっておじさんの友達のレストランにいこう」
後半部分はなつめに向けて言ったようだが、なつめは黒い瞳で部屋中を観察することに集中していた。「わかった。五時までには用意しておく」とオレが答えると、車のキーをふたたび手にした父は、日に焼けた顔に皺を作って笑った。妙に子供っぽいその笑顔に面食らう。子供であるオレたちよりもずっと、旅行を楽しみにしていたみたいだ。
「なつめ?」
ばたん、と父がドアを閉める音を聞いてから呼びかけると、なつめは真面目な顔で、
「どうしてベッドが二つあるの」
と言った。真面目な、半ば、恐る恐るといった顔で。
それは、と言うために口を開くと、
「別々に寝なくちゃいけないの?」
となつめが言った。この世の終わりのような悲しげな顔だ。普段なつめの家に泊りにいくときは、同じベッドで眠っている。
「だって、なつめの部屋のベッドよりずっと小さいだろ? 落っこちちゃうよ」
納得のいく理由ではなかったらしく、なつめは白いソックスのつま先を見つめたままむっつりと黙りこんだ。オレは自分のリュックサックを手前側のベッドのそばに置き、その中から小さく畳んだ洋服や下着を取りだす。一泊なので荷物はとても少ない。下着と同じ袋から水着をだし、突っ立ったままのなつめに、
「プールにいく?」
と訊ねてみる。泳ぎは得意ではないが、なつめはプールが好きだ。
「……」
「たぶんそんなに人は多くないよ。泊まってる人しか使えないみたいだし」
子供はあまり泊まっていないようだから、と言いかけて、自分も子供なのになんだか妙だなと感じてやめた。でも、子供だから子供に馴染めるかというとそうではない。子供は苦手だ。オレもなつめも。
黙って見つめていたら、観念したようになつめがリュックサックを下ろした。ファスナーを開け、登紀子さんや久子さんが綺麗に畳んで入れてくれた洋服や、薬の入ったポーチや、歯ブラシや、キャンディの缶を投げるようにだしていく。洋服と下着は、『明日のお洋服』というラベルを貼った袋にひとまとめにされていた。『プール用』というラベルの袋には、トランクス型の水色の水着とうすい黄色の水泳帽と、白に近い銀色のゴムのゴーグル、それにラグラン袖のラッシュガードが入っていた。
「疲れたら、ホテルの中にあるカフェでジュースを飲もうな」
な? と言って手を取ると、なつめはむっつりした顔のまま、でも小さく頷いた。生の果物を絞ったジュースがあるといいんだけど、とオレは思った。
多くない、どころか、プールには誰もいなかった。
「四角じゃないね」
となつめが言う。プールは瓢箪のようにくびれたいびつなかたちで、プールサイドには木のテーブルと揃いの椅子が二脚、それぞれ三セットずつ置いてあった。ホテルの写真でよく見るビーチパラソルなんかはなくて、オレはそれを感じがいいと思った。ああいうのは、安っぽくて格好悪い。南国でもないのにヤシの木が生えていたりするのも。
ホテルの裏側に位置するそこは、三辺を木々で囲まれていた。残りの一辺はホテルの客室に面しているのだが、空き部屋なのか、でかけているのか、どこの部屋の窓も人影はなく暗い。外からは見えにくいガラスを使っているのかもしれない。
「帽子、かぶらないの?」
窮屈そうな水泳帽に頭を押しこもうとしながらなつめが言ったので、オレは鼻の先に皺を寄せて首を振った。
「ダサいじゃん」
「ださい?」
「カッコよくないだろ?」
少し考えてから、なつめも帽子を被ることはやめると決めたようだ。オレが持ってきた大判のタオルと一緒に椅子の上にそれを置き、ゴーグルだけ首に掛けた。プールサイドに腰を下ろして、棒切れのように細い脚を水につける。ぴったりとしたラッシュガードを着たなつめは、どの方向から見ても藁半紙みたいにうすっぺらい。
オレははしごも使わず、ばしゃん! と勢いよく水に飛びこんだ。顔や腕の内側や胸に、水がどんとぶつかってくる。瞬間、スライムのようなゼリー状のものの中に潜りこんだ感じになるのが面白い。腕や脚はすぐに自由に動かせるようになるけれど、動かすたびに水が纏わりついてくるのも面白い。瞼を開くときが一番不思議だ。水の中は透明なのに、普段見えている空間とはまったく違う。スポットライトみたいな細い光がちらほらとさしこむ。光とオレだけがこの空間に閉じこめられているのだ。
わざと身体を低くして水中を泳ぎ、適当にUターンすると、ゆらゆらする棒切れ、もとい、なつめの脚が見えた。それを掴んで水から顔をだすと、
「びっくりした」
と、ちっともびっくりしていない満面の笑みを浮かべたなつめがいた。細い腕の先の小さな手をオレの両肩にのせて体重を掛けるので、そっくり返りそうになった。苦笑いをしながら胴を支えるように持つ。なつめが尻をずらして少しずつ前に進み、ゆっくりオレに覆いかぶさるように水に入ってくる。なつめはもともと恐ろしく体重が軽いけれど、水の中で抱きとめるとほとんど痛々しいくらいに軽かった。まるで身体がそこにないみたいだ。
「つめたくてきもちいいね」
なつめがそのまま顔をつけようとするので、慌てて首根っこを掴んだ。
「バカなつめ。ゴーグルしないと、目が真っ赤になっちゃうぞ」
「でもかけるはしてないけど真っ赤になってないよ」
「オレは強いからいいの」
「強い?」
「そう、強い。なつめは、目が赤くなるだけじゃなくて痛くなったり痒くなったりするだろ?」
なつめはじっと考えこんでから首に掛けていたゴーグルを手に取った。ゴムをぎゅうぎゅう広げながら頭に引っ掛けようとするのが可笑しくて、笑い声が自然に漏れる。たとえば登紀子さんや久子さんもそうだし、さっきホテルのエントランスですれ違った大人たちもそうだと思うが、なつめの動きの拙さにはどうしたって笑ってしまう。犬や赤ん坊のそれに似ていると思うけれど、ヴェルダが──アフガンハウンドのほうの──聞いたらこれも怒りそうだ。彼はなつめが生まれる前から羽根木家にいるのでオレたちよりずっと年上だし、とても知的で滑らかな動きをするから。
なつめのゴーグルを調節してやってから、瓢箪型のプールを二人占めした。大人が十人も入れば狭く感じられるくらいの面積だったけれど、中学生のオレたちが二人で遊ぶにはちょうどよかった。なつめはオレの手に掴まって、クロールの練習をしたり、仰向けになってぷかぷかと浮かんだりしていた。なつめはとても痩せているが、がりがり、というより、瘦せっぽち、という感じがする。頼りなくはあるけれど、貧相ではない。肌が健康的な黄色人種らしい色だからかもしれないし、頬が小さな子供みたいにふっくりしているからかもしれない。なつめは誰の目にも、裕福な家庭に育った子供に見えるだろう。
雲一つない青空だ。違和感を覚えるのは、電線が見えないからだろうか。一体どれくらい泳いだのだろう。プールの底にしっかりと足をつけてあたりを見渡してみたが、人の気配はやはりしないままだ。時計はもちろん、時間を知らせるものもない。学校では、うんざりするくらい毎回チャイムが鳴る。始まりも終りも休憩も、休憩の始まりも終りも、とにかくすべてが耳障りなチャイムで知らされるのだ。でも意外なことに、人工的な音がない場所は少しだけ心細い。道路や駐車場から離れている所為か車の音もしないし、これだけ木があるのに鳥の鳴き声どころか蝉すら鳴いていない。
ゆったりと、微かな風が作りだす流れに任せるように水面を揺蕩(たゆた)うなつめの姿が視界に入った。それほど広くもない、端から端まできちんと見渡せるプールなのに、オレは突然なつめがそのままどこかに流されていってしまうような気がしてこわくなった。
「なつめ」
近づこうと水を掻きわける。最初は面白いと感じていた水圧が、いまは鬱陶しい。ばしゃ、という音ばかり大きく、それなのになかなかなつめに届かない。
「なつめっ」
大声をだすと、仰向けに浮いていたなつめが動いた。ゴーグルを外し、犬かきのように顔だけ水面からだしてばしゃばしゃと近づいてくる。目のまわりに、うっすらとゴムの痕がついていた。
「かける?」
腕を伸ばして引き寄せると、突然引っ張られたのが面白かったのか、きゃきゃっとなつめが小さく笑った。耳元にその声と息を感じてほっとする。いまのはなんだったんだろう。なつめが突然、とても遠いところにいってしまうような気がしたのだ。
「かけるは白いね」
水をはじくオレの腕に指先で触れながらなつめが言う。腰を抱えるようにして左右に振り回すと、さっきの倍以上大きな声で笑った。面白いものや楽しいことがあったから笑うというよりも、脳みそや身体に、笑うべきだと命令されて笑うような、本人の意思とは関係なく漏れてしまう声だった。やっぱり、赤ん坊とか、動物っていう感じだ。クラスのやつらの声は、きーきーいう猿みたいなのに、なつめの声は全然違う。なんの動物だろう。愛らしく、柔らかな体温を持つ。
ひとしきり笑って、呼吸もおぼつかないくらいになったなつめは頬を真っ赤に上気させていた。ラッシュガードに守られたうすっぺらい胸が大きく上下している。濡れた額をこつんと合わせ、見つめ合って、ふたたびくすくす笑った。
「いま何時だろうな。部屋に戻る? 着替えて、ジュースを飲みにいく?」
「かける、ざらざら」
驚いて目を見開くと、大きな瞳を半月にしたなつめがもう一度言った。「かける、ざらざら」と。
「いま? ここで?」
なつめにとってはいつまでも、「ざらざら」は「ざらざら」であって、それ以上の意味はないのだろう。オレだって何年か前までは、それが特別なことだと意識していなかった。キスなんて言葉を知るまでは、うすく開いたなつめの唇から覗く小さな前歯を舌で撫でることは、オレたちだけの秘密の合図のようなものだった。でもいまは、それがふつう──日本ではふつう、恋人同士がすることだと知っていた。友達同士が、まして男同士がするものではないのだと。
でも、なつめにそれを説明してもわからないだろう。きっととても悲しそうな顔をする。
「部屋じゃ駄目?」
言ってから、妙に恥ずかしくなって顔に血が上った。オレの首に両腕を巻きつけて、なつめが不思議そうに首を傾げる。確かにひと気はないけれど、突然誰かくるかもしれない。客室から見えるかもしれない。でも、部屋で隠れてするようなことでもない──と思わなければならない。だって、悪いことをしているわけではないんだ。これはオレたちの、友情の合図だから。友情って、あんまりしっくりこない言葉だけど。
「いまがいい」
きっぱりした口調でなつめが言った。オレの戸惑いなんかどこ吹く風で、唇を開く。
風がさらさら流れていく。塩素の香りのする雫が、なつめの髪を伝ってオレの頬に落ちた。乾いた頬にあたるそれは、ぴりっとつめたかった。半月になっていた黒い瞳が徐々に閉じられる。誘われるように目を瞑った。
瞼を閉じていても、なつめの唇がどのあたりにあるかわかるのは不思議だ。舌で触った歯の先は、やっぱりざらざらというより、ぎざぎざという感じ。いまよりずっと小さかった頃からなにもかわらない。
不思議なのは、ぎざぎざしているのは前歯だけだということだ。温かいなつめの口の中を舌で点検していくうちに、それに気付いた。気付いたのはもう、ずっと前のことだけれど。ときどきなつめが唇のすきまから息継ぎをしたり、小さな音を立ててつばを飲みこんだりした。そのたびにうっすら瞳を開けてなつめの顔を見てみた。頬が少し紅いことを除けば、眠っている天使みたいな顔だった。
舌と舌が触れ合うと、なつめはいつも笑ってしまう。それで、「ざらざら」は終わりを迎える。
「こそばいね」
そう言って笑ったなつめの唇が濡れているのは、プールの水の所為ではなく、オレのつばの所為だ。
それに、誰も気付きませんように、と強く思った。なつめの腰に巻きついているオレの腕には、ぶつぶつと鳥肌が立っていた。
こんなに暑いのに。
プールから上がったあと、部屋に戻って交代でシャワーを浴び、ホテルの二階にあったカフェでバナナとオレンジのフレッシュジュースを飲んだ。プールのあとは身体がひどく気だるい。重力ってほんとうに存在するんだな、という感じだ。指先が、水分を含んでぶよぶよしている気がする。向かいに座っているなつめはジュースを飲みながら、閉じていきそうになる瞼を何度も擦っていた。それを見ているとオレもあくびがでて、あくびをするとなつめもつられてあくびをした。目が合ったときは可笑しくて、二人で笑った。
さっきはちょっとびっくりしたけれど、なつめとこうして二人でいるのはほんとうに落ち着く。テレビをつけなくても、漫画がなくてもお菓子がなくても、それどころか話すことがなくても、お腹の底がじんわりと温められているような気持ちのよさがあった。ソファに座ってぽつぽつ話し、会話がなくなるとどちらともなく笑って、日差しの強さが徐々に変化していく窓の外を眺めたりした。オレたちの泊まっている部屋からは、プールは見えない。
父がホテルの部屋に戻ってきたのは五時過ぎで、オレもなつめもソファに座った状態で眠ってしまっていた。父はなんだか済まなさそうな顔でオレの肩を揺さぶって起こし、「待たせたな」と、片手で拝むようにして小さく笑った。それから、「なつめちゃんも起こしてくれ」と内緒話のような声で言う。自分で起こせばいいのに、と思ったし、どうせ起こすんだから小声で話したって意味ないのに、とも思った。父は無意識なのだろう。
これは父に限ったことではなく、登紀子さんや久子さんや百合子さんといった家族を除く大人たちは、皆なつめの扱いにひどく戸惑うらしい。変なの、と思う。なつめは拒否も抵抗もしない。じっとこちらを見つめる曇りのない黒い瞳は嘘をつかない。
まだ半分くらい眠っているなつめを車にのせて、父の友人がオープンしたというレストランに向かった。街灯の少ない、つまりひと気のない道を車で二十分ほど走ると、緑の中にぽつんと浮かび上がる白い建物があった。
白線も引かれていなければ車止めブロックもない土の上に、父は迷うことなく車を停めた。ぴかぴかに磨かれたトヨタのハイブリッドカー。オレはそれを、旅行のために洗車してきたのだろうと思っていた。でも、ミラーに映る父の、心持ち緊張した赤っぽい顔と、白い建物の入り口に、コックコートを着た女の人が立っているのが見えたとき、洗車も旅行もなんのためのものだったのか察しがついた。
「ついたぞ」
と父は言った。そりゃあ車を停めたんだからついたに決まっているじゃないか、と思ったオレは返事をしなかった。もちろん、わかりきっていたからしなかったわけではない。したくなかったからしなかったのだ。
「やあ、遅くなって」と言って女性のもとに歩いていく父にはでも、オレの抵抗なんかちっとも伝わっていなかったけれど。
レストラン、とここを呼んでもいいのなら、オレの知っているレストランの中で一番小さい店だった。店の中の家具や装飾品はすべて木で作られていて、窓にはめこんである分厚いでこぼこのガラスも、壁に取りつけられた飾り棚の上の木製の小鳥の置物も、厨房へ続くのであろう木のドアも、センスがあったし感じはよかった。音楽はかかっていなかったけれど、図書室レストランと違って、ここにはその静けさが似合っていると思った。
客はオレたちしかいなかった。清潔な白いクロスが敷かれたテーブルに三人で座り、入り口に立っていた女性は、オレたちのテーブルのそばにやはり立ったままいた。
「かける、なつめちゃん、こちら、お父さんのお友達の嶋本さん。ここのレストランのオーナー兼シェフなんだ」
「こんばんは。はじめまして、嶋本です。かけるくんもなつめちゃんも、今日はたくさん食べてね」
「女の人でシェフなんて、すごいだろう? しかもこの若さで自分のお店を持つなんて」
嬉しそうに話す父の声が普段より少し高かった。緊張しているとき、父は声が大きくなる。大きな声で話せば、こちらが勢いで「うん」と頷くとでも思っているのだろうか。
「いえいえ、小さな店ですし、これからどうなるかもわかりませんから」
困っているのと照れているのと半分ずつというように笑う嶋本さんは、化粧気がまったくない所為もあってたしかに若々しかった。長い黒髪を後ろで一つに束ねていて、もちろん耳にピアスもイヤリングもぶらさがっていない。笑うと目元に皺が寄ってくしゃっとなるのも、女の子という雰囲気で可愛い人だった。
それでも、オレはむっとした顔を崩さなかった。嶋本さんの「こんばんは」にも、父の「すごいだろう?」にも答えたくなかった。自分のオンナを紹介するためだけにオレやなつめをこんなところまで連れてきたのかと思うと呆れたし、ばればれなのだから「お父さんの新しい彼女の嶋本さん」とでも言えばいいのに「お友達の」なんて言うところもいやらしいし、なによりも──
「いや、立派だよ。その若さで大変な仕事だろう」
なによりも、そんな言い方は母に失礼だ。母だって仕事をしている。父がそれを、責めたことはあっても褒めたことなんて一度もなかった。大声で言い合いをするときにはいつも、「きみはそうやってちゃらちゃらして、酒を飲むのも仕事のうちだなんて言うけれど」とか、「装身具で飾りたてなきゃ外にもでられないのか」とか言っていた。そりゃ、母は飲むと泣いたり暴れたりして、職場の男の人に抱えられて帰ってくることも二度や三度じゃないし、学校の運動会にルブタンのハイヒールを履いてくるような人だけど、でも。
どうしてこんなに腹が立つのかがわからなかった。顔を合わせれば大声で喧嘩をする両親を見ながら、「さっさと恋人でも作って別れればいいのに」と思っていた。思っていたけどそれでも、月に一度か二度の食事のときに、「お母さんは元気か? どうせまた酒ばっかり飲んでるんだろう」と父が笑顔で言うたび、それを信じたいと思う気持ちもあった。
下唇を噛んで俯くオレに、気付いていないのか、気付かないふりをしているのか、
「綺麗な人だろ、かける」
と言って父が笑った。嶋本さんがオレを見ているのがわかって、なおさら顔を上げたくないと思った。
でも、ここでだんまりを決めこむほどガキじゃない。父のやり方は気に食わないけれど、嶋本さんが悪いわけではない。小さく息を吐いて、顔を上げた。嶋本さんはオレと目が合うと、心配そうに眉を下げた。いい人そうだなというのが第一印象だった。派手好きの父が好きになりそうには思えなかったけれど、こういう素朴っぽさに惹かれる気持ちもわからなくはない。なにしろ、あの母のあとでは。
「嶋本さん、はじめまして。納見かけるです」
ぎこちない挨拶に、でも嶋本さんはとても嬉しそうに笑った。向かいに座っていた父も。馬鹿みたいに口を大きく開けて、「美人だろ」と同じようなことを繰り返した。
離婚したら、親権とか、どうなるんだろう。それで再婚したら、この人のことをお母さんと呼ぶのだろうか。なんか、身体にいいものとか食べさせられそうだけど、そういう感じになるのかな。
そこまで考えを巡らせていると、隣でぬいぐるみのように静かにしていたなつめが、「でも」と言った。細いなつめの声は男っぽくも女っぽくもなく、不思議とよく通る。父と嶋本さんが、少々驚いたように瞬きをしてなつめを見た。まるでほんとうにぬいぐるみだとでも思っていたようだ。
なつめはオレを見ていた。湿った黒目に、不安げなガキの顔が映っていた。
「でも、かけるのお母さまのほうがきれいだね」
なつめの言葉には嘘がない。一瞬止まった空気にも、視線を泳がせる大人たちにも気付かず、「ね」と言ってなつめが笑う。唇のすきまから小さな歯が覗く。
「──そうだな」
とオレはきっぱり言った。父にも嶋本さんにも悪いけど、なつめの前で嘘をつくわけにはいかない。
食事は最高の雰囲気ではなかったかもしれないが、最低の雰囲気でもなかったと思う。嶋本さんのレストランのメニューのベースはギリシア料理で、聞いてもピンとこない名前の料理もあったけれど、どれも色が綺麗で美味しかった。あまり濃くない味付けだったので、なつめにも十分に食べられた。ひき肉と米を葉っぱで巻いたものが口に合ったようだ。小ぶりの俵型のようなそれをぱくぱく口に入れるなつめを見て、「葡萄の葉っぱなのよ」と、嶋本さんは笑いながら言った。なつめがあんまり一生懸命食べるから、にっこりせざるを得なかった、という感じだ。なんだか誇らしかった。
ホテルの部屋に戻ってきたなつめはいま、中二階の部屋の奥のベッドにうつぶせになってクロスワードパズルをしている。サービスエリアの中にあった売店で買ったものだ。つやつやした、まったく癖のない黒髪がうす灯りに照らされて輝く。考え事をしているとき、なつめの唇はちょっと尖っている。横から見ると面白い。
「目が悪くなるぞ」
前髪が伸びたな、と思いながら見ていると、「ううー」となつめが小さく唸った。視線は広げた本にくぎづけだ。
「どれだ?」
「だめ。おれが一人でやってるんだもん」
覗きこむと、立てていた肘を伏せてクロスワードパズルを隠す。珍しく眉間に皺が寄っている。余程真剣に考えていたのだろう。オレはわざと、「あっそ」と気のない返事をしたけれど、心の中では笑っていた。
ホテルにつくや否や、「仕事のことでね、ちょっと、電話をしてくる」と言って外にでていった父は、十分ほどしてから戻ってきて、「ちょっと、仕事のことででかけてくるけど、もう夜遅いから外にでたりするなよ」と、車のキーを掴んでふたたびでていった。まったく呆れる。小学生でももう少し上手い理由を考えるはずだ。そもそも、仕事のことなんて嘘をつく必要がどこにあると言うのだろう。母やオレに義理立てしていると言うのなら、「お友達」とか「仕事のこと」なんて言わなくても済む程度に、決心やら今後のことが整ってから会わせてほしい。
でも、とオレは思う。ベッドの上でいまだにうんうん唸っているなつめを横目で見ながら。でも、旅行は思ったほど悪くはなかった、と。
「どれだよ。一問くらい助けてやるぞ」
「……」
嘘をつかずに生活するのは、たぶんとても難しいのだろう。それはきっと、大人になるほどそうなんだ。だから大人たちは皆、なつめの瞳を見られない。嘘をつかないのではなく、嘘をつくという発想がなつめにはそもそもない。
悔しそうに大きな目をうるうるさせて、なつめがオレを下から見ている。
「〝ねじ〟は日本語、フランス語では……?」
自分のベッドから降りてなつめのベッドに座った。前髪を指で上げると、傷も皺もない綺麗なかたちのおでこが現れる。
「ビス」
囁くように答えを言うと、なつめは瞬きをしてから、
「びす」
と繰り返してシャープペンシルを動かした。髪から指を離す。さらさらと元通りに流れてゆく。
「なつめ」
「なに?」
「狭いけど、一緒のベッドで寝る?」
言った瞬間に、なつめの頬がぱあっと紅くなった。上半身を勢いよく起こしたので、ベッドがぎしりと音を立てて揺れた。
「ほんとっ」
「うん。ほんと」
あぐらをかいたオレの腿の上に、なつめが当たり前のようにのってくる。オレは背中に腕を回してなつめを抱きしめる。甘く煮た牛乳の香りのするなつめの身体は、うすっぺらいけれどとても熱い。ラッシュガードを着ていたときよりもそれを実感する。
一緒にうつぶせになってクロスワードパズルの残りのマスを埋める。最終的にでてきた言葉は、こがらし、だった。いまの季節とまったく合っていなくてちょっと間抜けだなと思ったけれど、なつめがとても満足気に「こがらし」とつぶいたので、よかったと思う。
昼間と同じように順番にシャワーを浴びて、パジャマに着替えて歯磨きをしてから、登紀子さんに電話をした。通りいっぺんの質問──何時頃ホテルについたとか、こちらの天気とか、まわりになにがあるとか、もちろんなつめの体調とか──にはオレが答えた。なつめに受話器を渡すと、登紀子さんがこまごまと喋っているらしく、なつめは、「はい」と「うん」を繰り返していた。頷くたびにてっぺんの髪の毛がふわふわ揺れる。
「おゆうはんは、ぶどうの葉っぱとお肉が美味しかったよ」
なつめの言葉に、ぷっと吹きだしてしまった。電話口で頭に疑問符を浮かべているであろう登紀子さんのために、あのギリシア料理の名前を調べておかなくちゃ、と思った。「いまお父さんに電話してみたら、すぐに名前がわかるかもな」とも思ったけれど、それはあんまり意地悪な気がしてやめた。「おやすみなさい、お祖母さま」となつめが言い、受話器を下ろした。
電気をあらかた消して、奥側のベッドに二人で潜りこんだ。エアコンの冷気でつめたくなったシーツが、お湯にあたったあとの手や足に気持ちがいい。仰向けに寝転ぶと寝返りを打つだけですぐ落っこちてしまいそうだったので、オレもなつめも身体を横向きにして、向かい合って眠ることにした。部屋を暗くするだけであくびがでた。オレに続くように、なつめもあくびをする。そうしてまた二人で笑った。
「ざらざら」も、こんなふうに身体をくっつけて眠るのも、ふつうではあまりないことは知っていた。いくら仲がよくても、たぶん人が見たらぎょっとするのだろうということも。人にどう思われるかを気にするのは馬鹿馬鹿しいと思う。だけどそうは言っても、オレたちはいつも自分に与えられた枠の中で生きていて、それを故意にはみだすのは、とても勢いだけでできることではない。
枠について、オレは子供のときからずっと考えていた。
なにかをかえたいと思ったことはない。ヘンテコな両親という枠も、中学生になった自分という枠も、表向き……どころか、ひっくり返しても不自由はなかったし気に入っていた。なつめはどうだっただろう? うすっぺらくて弱い身体という枠に収まっているなつめの心は、どれくらい自由だっただろう。
なにかをかえたいと思ったことはなかった。むしろ、その枠を守っていたかった。
そこはオレとなつめにとって、安全な世界だった。
『翳りの星』第2章に続く